お経の最中に眠くなるのは失礼?僧侶の本音と浄土真宗の考え方

法事やお葬式で、お経が始まって数分。

まぶたがじわじわ重くなって、気づいたら一瞬カクンとなっていた……。足のしびれより、眠気との戦いのほうがつらかった。そんな経験はありませんか?

あとになって「お坊さんに見られていたかも」「故人に失礼だったかな」と、ちょっと気まずくなった人もいると思います。

この記事では、浄土真宗の僧侶の立場から、お経の最中に眠くなるのは失礼なのか、なぜ眠くなるのか、そもそもお経は誰に向けて読んでいるのか、そして眠気とどう付き合えばいいのかをお話しします。

目次

お経の最中に眠くなるのは失礼?僧侶の結論

「お経の途中で、うとうとしてしまって……。すみませんでした」

法事のあと、お茶をいただいているときに、こっそりそう言われることがあります。

先に結論をお伝えしますね。

一言で言うと、お経の最中に眠くなるのは、責められるようなことではありません。

僧侶としての私の本音は、「お疲れのところ、よくお参りくださいました」です。そして浄土真宗の教えから見ても、眠ってしまったことで亡くなった方が困る、ということはありません。

ただ、「じゃあ寝ていても同じだね」という話でもないんです。

なぜ眠くなるのか。お坊さんはどう見ているのか。浄土真宗では、眠くなる私たちをどう受けとめるのか。順番にお話しします。

なぜお経の最中は眠くなるの?

「もしかして、眠くなるのは自分だけ?」

そう思って、こっそり周りを見回したことはありませんか。安心してください。けっこうな数の方が、同じように眠気と戦っています。

お経の時間には、眠くなる条件がいくつも重なっているんです。

一定のリズムと低い声は、眠気を誘いやすい

お経は、同じテンポで、抑揚をおさえて、低めの声で読まれることが多いですよね。

これ、赤ちゃんを寝かしつけるときに、背中を一定のリズムでトントンするのと少し似ています。変化の少ない音が続くと、体は「今は休んでいい時間だ」と受け取りやすいのかもしれません。

意味がわからない言葉は、BGMのように聞こえてしまう

お経の多くは、漢文を音読みで読みます。耳で聞いても、意味はほとんど入ってきません。

知らない外国語のラジオを流していると、内容を追うのをやめて、いつの間にかBGMになっていた。そんな感覚に近いと思います。

意味をつかむ手がかりがないので、頭が「聞き流しモード」に入りやすいんですね。

葬儀や法事の日は、そもそも疲れている

もうひとつ大きいのが、体の疲れです。

通夜から葬儀まで、ほとんど眠れていない喪主の方は少なくありません。遠方から朝早く移動してきた方や、準備と親戚への気づかいで神経をすり減らした方もいるでしょう。

そこに、暖房のきいた部屋、お香の香り、ようやく座れたという安心感が加わります。眠くならないほうが不思議なくらいです。

眠くなるのは、故人を思う気持ちが足りないからではありません。 体が正直に反応しているだけです。

仏教でも、眠気は昔から「手ごわい相手」
仏教では、心のはたらきを覆って修行をさまたげるものを「五蓋(ごがい)」と呼びます。その5つのひとつが、眠気やだるさを指す「睡眠蓋(すいめんがい)」です。
坐禅を大切にする宗派で、修行僧の肩を打つ「警策(きょうさく/けいさく)」も、姿勢を正したり眠気を払ったりするためのものとされています。
修行に人生をかけた人たちでさえ、眠気には手を焼いてきたわけです。

お坊さんは、眠っている人に気づいているの?

「でも、お坊さんからは見えているんですよね……?」

これも、法事のあとによく聞かれる質問です。正直にお答えすると、気づくこともあります。

お経を読むとき、僧侶は仏さまのほうを向いています。なので読経の最中は、後ろに座る方々の様子はほとんど見えません。

ただ、お焼香の案内で振り返るとき。お勤めが終わって向き直ったとき。そして法話のときは、正面からみなさんのお顔が見えます。

法話の最中は、正直、けっこう見えています。

気づいても、気にしていないのが本音です

じゃあ、気づいたときに何を思っているのか。

私の場合は「ああ、お疲れなんだな」です。通夜からほとんど眠れていない喪主さんや、仕事を休んで駆けつけた方の事情は、わかっているつもりです。

それに、私自身も眠気に負けかけた経験があります。僧侶になるための研修中、早朝のお勤めで、まぶたが落ちそうになるのを必死にこらえていました。今でも、長いお勤めの後半は、声を出しながらぼんやりしそうになることがあります。

なので、眠そうな方を見て「失礼だ」と感じることは、まずありません。

もちろん、これは私個人の受けとめです。僧侶もいろいろなので、全員が同じとは言い切れません。ただ、まわりの僧侶仲間と話していても、居眠りに本気で腹を立てているという話は、ほとんど聞きません。

気をつけたいのは「眠気」より「音」と「けが」

眠ることそのものより、まわりへの影響を気をつけましょう。

たとえば、大きないびき。うとうとしているうちに、手から念珠(数珠)やスマホを床に落としてしまう音。どちらも、お経に耳を傾けているほかの方を驚かせてしまいます。

もうひとつは、けがです。正座のまま眠って前に倒れたり、しびれた足で急に立ち上がって転んだりすることがあります。高齢の方は特に気をつけてください。

そもそもお経は、誰に向けて読んでいるの?

「故人のためのお経なのに、眠ってしまって申し訳ない」

眠くなったあとにいちばん引っかかるのは、たぶんこの気持ちですよね。

そう感じるのは、とても自然なことです。実際、多くの宗派では、お経に故人を仏の道へ送り出す意味が込められていたり、読経の功徳を故人に振り向ける「追善供養」の考え方があったりします。

ただ実は、浄土真宗では考え方が少し違います。

一言で言うと、浄土真宗のお経は、故人を成仏させるための呪文ではなく、阿弥陀さまの徳をたたえ、残された私たちが教えを聞くためのものです。

浄土真宗では、亡くなった方は阿弥陀さまのはたらきによってお浄土に生まれ、仏となられると受けとめます。そこに、参列した私たちの聞き方の良し悪しが入り込む余地はありません。

つまり、あなたがうとうとしたことで、亡くなった方の救いが左右されることはないんです。ここは、浄土真宗の教えとしてはっきりしているところです。

むしろ法事や葬儀は、亡くなった方をご縁にして、私たちが教えに出遇うための時間だといえます。

「え、故人のためじゃないの?」と思われた方もいるかもしれません。お経を誰に向けて読んでいるのかは、別の記事で詳しく紹介しています。

なお、浄土真宗以外の宗派では、お経の意味づけがそれぞれ異なります。気になる方は、お付き合いのあるお寺にたずねてみてください。

浄土真宗では、眠くなる私たちをどう見ているの?

「じゃあ、眠ってもいいってこと?」

ここが、この記事でいちばんお伝えしたいところです。答えは「いい・悪い」の二択ではなく、もう少し深いところにあります。

正信偈には「倦きることなく照らす」という言葉がある

浄土真宗のお勤めでよく読まれる「正信偈(しょうしんげ)」に、こんな一節があります。

煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我
(ぼんのうしょうげんすいふけん だいひむけんじょうしょうが)

書き下すと、次のようになります。

「煩悩、眼を障えて見ずと雖も、大悲倦きこと無くして常に我を照らしたまうといえり。」(『真宗聖典』第二版 232頁)

煩悩が目をふさいで、私には仏さまの光が見えない。それでも、阿弥陀さまの大きな慈悲は、倦きることなく、いつも私を照らしてくださっている。そんな意味です。

もちろん、ここで言われているのは居眠りのことではありません。迷いの中にいて、仏さまに気づくことさえできない私たちのありようが語られています。

この一節は、源信僧都をたたえた部分です
正信偈は、親鸞聖人が、阿弥陀さまの教えと、それを伝えてくださった高僧たちをたたえた歌です。
「煩悩障眼雖不見」の句は、その中でも、平安時代の僧・源信僧都(げんしんそうず)の教えを述べた部分にあります。源信僧都は『往生要集』を著し、念仏の教えを広めた方です。

眠くなる私と、倦(あ)きることのない仏さま

ここからは、私個人の受けとめです。

私はこの一節を読むたびに、「倦きることなく」という言葉に目が留まります。

私たちは、すぐ眠くなります。すぐ飽きます。お経の途中で「あと何分かな」と考えてしまう。それが、ごく普通の人間の姿です。

でも、照らすほうの仏さまは、倦きない。こちらが眠っていても、よそ見をしていても、照らすのをやめない。

実は浄土真宗では、人間を「煩悩具足の凡夫(ぼんのうぐそくのぼんぶ)」、つまり煩悩をかかえたまま生きる存在だと見つめます。

そして阿弥陀さまの救いは、私たちの努力や集中力を条件にしていません。ちゃんと聞けない私を、はじめから見すえた教えです。

一度で聞けなくても、また聞けばいい

とはいえ、「だから聞かなくていい」という話ではありません。

浄土真宗では、教えを聞くことを「聴聞(ちょうもん)」と呼び、とても大切にしてきました。蓮如上人の言葉を集めた『蓮如上人御一代記聞書』には、こんな言葉が残っています。

「いたりてかたきは石なり。至りてやわらかなるは水なり。水、よく石をうがつ。」(『真宗聖典』第二版 1063頁)

この上なく固いのは石で、この上なくやわらかいのは水。それでも水は、長い時間をかけて石に穴をあける。そんな意味です。

この言葉に続けて、心を入れて聴聞するようにとも書かれていて、最後は「只、仏法は聴聞にきわまることなり」と結ばれています。

聞く姿勢は、やっぱり大切にされています。ただ、一回のお参りで、すべてを聞き取る必要はありません。

今日はうとうとしてしまった。それなら、次の法事でまた耳を傾ければいい。一滴ずつ、何度も重ねていくのが聴聞だと思います。

お経の眠気とうまく付き合うには?僧侶がすすめる小さな工夫

「とはいえ、できれば起きていたい」

そう思う方のために、僧侶の立場から、無理なくできる工夫をいくつかご紹介します。

お勤めの本を開いて、目で追ってみる

会場やお寺に、お勤めの本(勤行本・経本)が置いてあれば、開いてみてください。

ふりがなが振ってあることが多いので、僧侶の声に合わせて文字を目で追うだけで、聞き流しモードから抜け出しやすくなります。

「今どこを読んでいるのか」がわかるだけで、お経はただの音から、言葉に変わります。

小さな声で、一緒に読んでみる

浄土真宗のお勤めは、もともと僧侶だけのものではありません。門徒宅のお内仏(お仏壇)の前で、家族そろって読まれてきたものです。

だから私も、法事では「みなさん、声に出して一緒に読みましょう」と必ず勧めています。

全部でなくても大丈夫です。最後の「南無阿弥陀仏」だけ声を合わせる。それだけでも、ずいぶん目が覚めます。

法事でよく読まれる正信偈の意味や読み方は、別の記事で詳しく紹介しています。

体を少しだけ楽にしておく

正座がつらいなら、目立たないように足を崩して大丈夫です。椅子席が用意されている会場なら、遠慮なく使ってください。

暖房がききすぎた部屋では、上着を一枚脱ぐだけでも違います。前の晩はできるだけ早めに休む、お参りの直前に満腹にしない、というのも地味に効きます。

お経の言葉を、ひとつだけ知っておく

最後は、少し遠回りな方法です。

お経の中の言葉を、ひとつだけでいいので意味を知っておく。たとえば正信偈の冒頭「帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい)」は、「限りないいのちの仏さま、阿弥陀さまにおまかせします」という意味です。

電車のアナウンスで、自分の降りる駅名だけは、なぜか耳に飛び込んでくることがありますよね。

知っている言葉がひとつあると、お経も同じように、ふっと耳が反応するようになります。そこから少しずつ、聞こえ方が変わっていきます。

お経の最中の眠気について、よくある疑問

最後に、ほかにもよくいただく質問に、まとめてお答えします。

眠ってしまったら、バチが当たったりしない?

心配いりません。浄土真宗では、仏さまが罰を与えるという考え方はしません。

阿弥陀さまは、迷いの中にいる私たちを見捨てることなく、救おうとはたらき続ける仏さまです。居眠りをとがめて罰を与える、という仏さまではないんですね。

法話の最中に寝てしまうのは?

法話は、僧侶がみなさんのほうを向いてお話しする時間です。なので、お経のとき以上に、眠っている姿は見えています。

ただ、話し手としての本音を言うと、眠くなるのは聞き手のせいばかりではないと思っています。「今日の話し方は伝わりにくかったかな」と、帰り道に反省することもしばしばです。

法話を「お説教」と呼ぶ理由や、法話がどんな時間なのかは、別の記事で詳しく紹介しています。

→ 法話をなぜ「お説教」と言う?怒られる意味じゃない本来の意味を僧侶が解説

子どもが寝てしまったら、起こしたほうがいい?

起こさなくて大丈夫です。静かに眠ってくれているなら、そのまま寝かせてあげてください。

小さな子どもにとっては、じっと座っているだけでも大仕事です。お参りの場に一緒にいてくれた、それで十分だと私は思います。

子ども連れの法事で心配なことは、別の記事で詳しくまとめています。

寝てしまったことを、お坊さんに謝ったほうがいい?

謝らなくて大丈夫です。気になるなら、「最後のほう、眠くなっちゃって」と笑い話にしてもらえれば十分です。

少なくとも私にとっては、疲れをおしてお参りしてくださったことのほうが、ずっと心に残っています。

まとめ

お経の最中に眠くなるのは、一定のリズム、意味のわからない言葉、そして葬儀や法事の疲れが重なって起きる、ごく自然なことです。少なくとも私は、それを失礼だとは思っていません。

浄土真宗では、お経は故人を成仏させるための呪文ではないので、眠ってしまったことで亡くなった方が困ることもありません。 マナーとして気をつけたいのは、いびきや転倒など、まわりへの配慮と安全のほうです。

そして、すぐに眠くなってしまう私たちを、倦きることなく照らし続けてくださるのが阿弥陀さまだと、浄土真宗では受けとめます。今日うとうとしてしまったなら、次のお参りで、また少しだけ耳を傾けてみてください。

maru
浄土真宗の僧侶・二児の父
会社員から縁があって僧侶になりましたが、子育ても日々の暮らしも、迷うことばかり。仏教や仏事の「よく分からない」を、身近な言葉でひもときます。ときどき、父親として感じたことや、暮らしの小さな気づきも。
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