数珠(念珠)が切れた・忘れた!縁起が悪いって本当?浄土真宗の僧侶が解説

数珠(念珠)が切れた・忘れた!縁起が悪いって本当?浄土真宗の僧侶が解説

お通夜の焼香の列に並んでいたら、手元で「プツッ」。念珠の珠が床に転がっていく。

あるいは、斎場に着いてから、カバンに念珠が入っていないことに気づいて青ざめる。

そんな経験はありませんか?

「数珠が切れるのは縁起が悪いって聞くけど、大丈夫かな」

「忘れたまま手を合わせて、失礼にならなかったかな」

あとからモヤモヤする方は少なくありません。

この記事では、浄土真宗の僧侶の立場から、数珠(念珠)が切れたとき・忘れたときの考え方と対処法をお伝えします。あわせて、「そもそも念珠は何のために持つのか」もまとめました。

目次

結論:数珠が切れても忘れても、縁起が悪いことは起こりません

先に答えをお伝えしますね。

念珠が切れても、忘れても、それで何か悪いことが起こるわけではありません。

故人に申し訳が立たない、といった心配もいりません。

切れたら直せばいい。

忘れたら、念珠なしで手を合わせればいい。

本当にそれだけの話です。

ただ、「じゃあ念珠なんて持たなくていいの?」というと、それも少し違います。

浄土真宗では、念珠を「何のために持つのか」がはっきりしています。そこが分かると、切れたときも忘れたときも、落ち着いて受け止められるようになりますよ。

そもそも数珠(念珠)は何のために持つもの?

葬儀や法事のときに持っていく念珠。「持っていくものだから持っていく」という方がほとんどではないでしょうか。

私も子どもの頃は、祖母に持たされるままで、何のために持つものなのかよく分かっていませんでした。

一言で言うと、念珠は仏さまの前で身なりを整えて、手を合わせるときに用いるものです。

「数珠」と「念珠」、呼び方が違うのはなぜ?

一般的には「数珠(じゅず)」と呼ぶ方が多いと思います。文字どおり「数をかぞえる珠」という意味です。

お経や念仏を称えた回数を、珠を一つずつ繰りながら数える。もともとは、そういう使い方をする道具でした。今もそのように用いる宗派があります。

一方、浄土真宗では「念珠(ねんじゅ)」と呼ぶことが多いです。

理由はあとで詳しく書きますが、浄土真宗では念仏の数を数えるために念珠を使わないから。数をとる珠ではなく、念仏とともにある珠、というわけです。

どちらが正しくてどちらが間違い、という話ではありません。この記事でも、「数珠」と「念珠」の両方を使っていきます。

108の珠には煩悩の意味がある

正式な数珠の珠の数は、108個が基本です。「除夜の鐘と同じ数だ」と気づいた方もいるかもしれません。

108は、人間の煩悩の数を表すとされています。その半分の54個、さらに半分の27個の念珠も一般的です。

葬儀でよく見かける片手用の「略式念珠」には、もっと珠の少ないものもあります。

インドから日本へ、念珠の長い歴史

念珠のルーツは古代インドにあります。

仏教が生まれる前から、インドの宗教で祈りの言葉を唱えるときに使われていたものが、仏教にも取り入れられたと考えられています。

中国で訳された『木槵子経(もくげんじきょう)』というお経には、木槵子という木の実を108個つないで、仏・法・僧の名を称えながら一つずつ繰っていく、という話が出てきます。

日本にも仏教とともに伝わり、奈良時代の念珠が正倉院に残されています。

念珠は1000年以上、仏教とともに人々の手元にあり続けてきた道具なんですね。

なぜ「数珠が切れると縁起が悪い」と言われるの?

「数珠が切れるのは、不吉なことの前触れ」。そんな話を聞いたことがある方は多いと思います。

大切なものが突然壊れたら、なんだか嫌な予感がする。その気持ち自体は、とても自然なものです。お葬式という、ただでさえ心が揺れている場ならなおさらですよね。

ただ実は、仏教の立場から見ると、この「縁起が悪い」という言い方には、少し引っかかるところがあります。

仏教の「縁起」は、良い・悪いの話ではない

「縁起」という言葉は、もともと仏教の言葉です。

本来の意味は、「すべてのものごとは、さまざまな原因と条件が重なり合って起こる」ということ。お釈迦さまの教えの中心にある考え方です。

それが時代とともに、「良いことの前触れ」「悪いことの前触れ」という意味で使われるようになりました。「縁起がいい」「縁起でもない」は、こちらの使い方ですね。

「縁起」の本来の意味
仏教でいう縁起は、「縁って起こる」こと。ものごとは単独でたまたま起こるのではなく、たくさんの原因と条件がつながり合って起こる、という見方です。
この見方に立つと、念珠が切れたことも「不吉のサイン」ではありません。糸が古くなっていた、どこかに引っかけた、強い力がかかった。そうした原因と条件が重なった結果、ということになります。

え、そう考えると、ちょっと拍子抜けしませんか?

数珠が切れる一番の理由は「糸の寿命」

念珠の珠をつないでいるのは、絹やナイロンなどの糸です。

糸は、使っているうちに少しずつ擦れて弱っていきます。手の汗や湿気も影響します。

スマホのバッテリーが何年か使うと弱ってくるのと同じで、念珠の糸は消耗品です。親から譲られた念珠や、何十年も使ってきた念珠なら、切れて当然とも言えます。

葬儀のあとによく聞かれる質問に、「法事の最中に切れたのは、故人が何かを伝えたかったからでしょうか」というものがあります。

お気持ちはよく分かります。でも、ほとんどの場合は、糸の寿命か、取り出すときなどに強い力がかかったことが原因です。

ちなみに世間には、「数珠が切れたのは持ち主の身代わりになってくれたから」という、逆に良い意味の言い伝えもあります。

不吉と言われたり、良い兆しと言われたり。同じ出来事でも、受け取る人によって意味がくるくる変わる。そのこと自体が、吉凶というものの当てにならなさを表しているように、私は感じています。

浄土真宗では念珠をどう考える?

では、浄土真宗では念珠をどう位置づけているのでしょうか。

実は、煩悩を消すためや、念仏の回数を数えるためには、念珠を用いません。

「え、じゃあ何のために持つの?」と思いますよね。

ここが他の宗派との一番の違いなので、順番に見ていきます。

念仏は「何回称えたか」ではない

宗派によっては、念仏やお経を称えた回数を念珠で数え、その積み重ねを大切にする考え方があります。修行として回数を重ねることに意味を見る立場です。

一方、浄土真宗の念仏は、回数を積み上げて何かを得るためのものではありません。

阿弥陀仏は、すでに私たちを救うと誓ってくださっている。その願いに出遇った者が、「ありがとうございます」と応えて称えるのが、浄土真宗の念仏です。

感謝の言葉を回数で数えないのと同じで、念仏も数えない。だから、念珠を「数をとる道具」としては使わないんですね。

念珠を持つのは「仏を手づかみ」にしないため

数を数えないなら、念珠はなくてもいいのでは?そう思った方に紹介したい言葉があります。

浄土真宗の教えを広めた蓮如上人が、文明6年(1474年)、吉崎(今の福井県あわら市)にいた頃に書いた手紙、『御文』の一節です。

そのゆえは、珠数の一連をも、もつひとなし。さるほどに仏をば手づかみにこそせられたり。聖人、まったく、珠数をすてて仏をおがめとおおせられたることなし。
(『御文』第二帖第五通『真宗聖典』第二版946頁)

現代の言葉にすると、だいたいこんな意味です。

「念珠を一連も持っている人がいない。これでは仏さまを素手でわしづかみにしているようなものだ。親鸞聖人は、念珠を捨てて仏を拝めなどとは、まったくおっしゃっていない」

なお、『御文』は浄土真宗本願寺派では『御文章(ごぶんしょう)』と呼ばれています。

「手づかみ」とは、なかなか強烈な表現ですよね。

名刺交換を思い浮かべると分かりやすいかもしれません。大切な相手の名刺を、片手でひょいとつかんで受け取る人はいませんよね。両手で丁寧に受け取るところに、相手への敬意が表れます。

念珠も同じで、仏さまに向き合うときの身だしなみであり、敬う心を形にしたものです。法事に礼服を着ていくのと近い感覚、と言ってもいいかもしれません。

吉凶にふりまわされないのが浄土真宗

もう一つ、浄土真宗には大切な姿勢があります。

それは、日の良し悪しや吉凶にふりまわされないということです。

親鸞聖人は、和讃の中でこう嘆いています。

「かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす」(『正像末和讃』『真宗聖典』第二版623頁)

僧侶も在家の人も、良い時・良い日を選び、神々をあがめ、占いやまじないに熱心になっている。なんと悲しいことか。そんな意味です。

浄土真宗では、友引や仏滅などの日の吉凶は仏教とは関係のない迷信で、日に良し悪しはないと考えます。

浄土真宗のお寺がお守りを出していないのも、同じ理由からです。不安から何かにすがるのではなく、それに縛られない生き方に出遇ってほしい、という願いがあります。

念珠が切れたことを「不吉」と受け取るのは、まさに出来事に吉凶を読み取る考え方です。浄土真宗の教えに照らせば、念珠が切れたことに良いも悪いもありません。

数珠が切れたときはどうすればいい?

考え方が分かったところで、実際の対処法です。

法要や葬儀の最中に切れたら

まずは慌てずに、散らばった珠をできる範囲で拾いましょう。近くの方が一緒に拾ってくれることも多いです。

拾った珠と糸は、ハンカチやティッシュ、念珠袋などにまとめて包んでおきます。

珠がいくつか見つからなくても、心配はいりません。修理のときに、似た珠で補ってもらえることもあります。

焼香や合掌は、念珠がないまま続けて大丈夫です。式の進行を止める必要はありません。

私自身、門徒宅での法事の最中に念珠の糸が切れて、珠がコロコロと転がっていったことがあります。お参りの方々と目が合って、思わず苦笑い。

そのあとは念珠なしでお勤めを続けて、法事は何ごともなく終わりました。

修理すれば、また使い続けられる

切れた念珠は、仏具店や念珠店で修理(糸の交換)ができます。

糸を新しくするだけなら、比較的手軽に直せることが多いです。費用や日数は念珠の種類や素材、お店によって変わるので、まずは近くの仏具店に問い合わせてみてください。

親や祖父母から受け継いだ念珠なら、直して使い続けるのがいちばんだと私は思います。糸を新しくして、また手を合わせる。それは、その念珠で手を合わせてきた人とのご縁を受け継ぐことでもあります。

処分したいときは?

古くなった念珠を手放したい、ということもあると思います。

浄土真宗では、念珠そのものに何かが宿っているとは考えません。ですから、手放すために特別な儀式やお焚き上げが必要、ということはありません。

とはいえ、長年手を合わせてきた念珠を、ほかのゴミと一緒に出すのは気が引けますよね。そう感じるなら、お手次のお寺や仏具店に相談してみると安心です。

【補足】他の宗派では考え方が違うことも
念珠を持ち主のお守りや分身のように大切にする考え方や、手放すときにお焚き上げをする習慣は、宗派や地域によってはあります。
浄土真宗以外のお寺とご縁がある場合は、そのお寺の考え方に合わせて相談してみてください。

数珠を忘れたときはどうすればいい?

さて、もう一つのお悩み、「忘れた」問題です。

先ほど紹介した蓮如上人の『御文』には、実は続きがあります。

さりながら、珠数をもたずとも、往生浄土のためには、ただ他力の信心ひとつばかりなり。それにはさわりあるべからず。
(『御文』第二帖第五通『真宗聖典』第二版946頁)

「とはいえ、念珠を持っていなくても、浄土に生まれるために大切なのは、阿弥陀仏をたのむ信心ひとつだけ。念珠がないことは何の妨げにもならない」という意味です。

念珠を持たない姿を「仏を手づかみ」と厳しく戒めながら、すぐあとで「でも、それで救いが左右されるわけではない」と言い切っている。ここに、浄土真宗の念珠の位置づけがよく表れていると思います。

念珠は仏さまを敬う身だしなみ。でも、念珠の有無で救いが変わることはない。

これは教えとしてはっきりしていることです。

念珠がなくても合掌・焼香はできる

忘れてしまったときは、念珠なしで、そのまま手を合わせて大丈夫です。焼香も、念珠がないからといって作法が大きく変わるわけではありません。

周りの目が気になるかもしれませんが、焼香の場で他の人の手元をじっと見ている人は、そう多くありません。慌てずに、仏さまに手を合わせてください。

人に借りるのは、あり?なし?

「家族の念珠を借りてもいいですか?」という質問もよく受けます。

世間のマナーとしては、念珠の貸し借りは避けたほうがよい、と言われることがあります。念珠はその人が仏さまに向き合うための個人のもので、お守りのように考える見方もあるから、というのが主な理由のようです。

一方、浄土真宗の教えから言えば、借りた念珠で手を合わせたから悪いことが起こる、ということはありません。

家族や親戚の予備の念珠を使わせてもらっても、まったく問題ありません。お寺での法要なら、予備の念珠を貸してもらえることもあります。

ただ、親戚の中には貸し借りを気にする方もいるかもしれないので、無理に頼まず、相手の考えを尊重するのが無難です。

手に入るなら、その場で用意しても

葬儀会館によっては、売店で略式の念珠を扱っていることがあります。時間に余裕があれば、スタッフの方に聞いてみるのも一つの方法です。

これを機に自分の念珠を一つ持っておくと、次からは安心ですね。念珠袋ごと喪服のポケットやフォーマル用のバッグに入れておくと、忘れにくくなります。

浄土真宗の念珠の持ち方は?宗派によって違う?

せっかくなので、真宗大谷派の念珠の持ち方も紹介しておきます。

ふだん念珠は左手に持ち、合掌するときは両手を念珠の輪に通して手を合わせます。片手だけにかけて、もう片方の手を添えるのではなく、両手を通すところがポイントです。

【真宗大谷派の念珠の持ち方】
一輪念珠(短い念珠)は、両手を念珠に通し、房を下に垂らします。
二輪念珠(長い念珠を二重にしたもの)は、両手を念珠に通し、親玉(房の上の大きな珠)を親指で押さえて、房を左手の外側に垂らします。
どちらも、持ち歩くときは左手で持ちます。

ただし、持ち方は浄土真宗でも宗派によって異なる場合があります。

たとえば浄土真宗本願寺派では、女性用の二輪念珠は房を下に垂らす持ち方が一般的とされ、房の形も大谷派とは違うことが多いようです。お寺や地域によって伝え方が違うこともあるので、迷ったときはお手次のお寺に聞いてみてください。

細かな作法の違いに迷ったら、念珠を持つ意味のほうに立ち返ってみてください。仏さまに向き合う心を形にしたものが、念珠と合掌です。

数珠についてのよくある疑問

最後に、葬儀や法事のあとによく聞かれる疑問にお答えします。

他の宗派の数珠を使ってもいいの?

一般的な略式念珠(一輪の念珠)なら、どの宗派の法事でも使えることがほとんどです。

宗派ごとの正式な念珠(本式念珠)は形が違うので、浄土真宗のお寺とご縁があるなら、浄土真宗用のものを選ぶと安心です。

とはいえ、宗派の違う念珠を持っていったからといって、それを責められることはまずありません。

腕輪念珠(ブレスレット)で法事に出てもいい?

手首につける腕輪念珠は、日常的に身につけるものとして親しまれています。

ただ、法事や葬儀の場では、手に持ち、合掌のときに両手にかける念珠を用意するのが一般的です。腕にはめたまま拝むのではなく、両手を通して合掌する形を大切にしたいところです。

子どもにも念珠は必要?

子ども用の小さな念珠もあります。

必ず持たせなければいけないものではありません。ただ、自分の念珠を持つと、子どもなりに「仏さまの前なんだ」と感じるきっかけになります。

子どもと一緒に法事に参加するときの心構えは、以下の記事で詳しく紹介しています。

念珠は畳や床に置いてもいい?

一般的には、畳や床に直接置かないのがマナーとされています。

法事の最中に手から離すときは、念珠袋やハンカチの上に置いたり、カバンにしまったりするとよいでしょう。

これも、置いたら何か悪いことが起こる、という話ではありません。仏さまの前で使う大切なものだから丁寧に扱う、というだけのことです。

まとめ

念珠が切れても忘れても、それで悪いことが起こるわけではありません。切れる理由のほとんどは糸の寿命なので、仏具店で糸を替えれば、また使い続けられます。

浄土真宗では、念珠は念仏の数を数える道具ではなく、仏さまに向き合うときの身だしなみです。蓮如上人は、念珠を持たない姿を「仏を手づかみ」と戒めながらも、念珠がなくても救いには何の妨げもないと言い切っています。

念珠が切れたり忘れたりしたときは、吉凶を気にするより、「また手を合わせるご縁をいただいた」くらいの気持ちで、落ち着いて向き合ってもらえたらうれしいです。

maru
浄土真宗の僧侶・二児の父
会社員から縁があって僧侶になりましたが、子育ても日々の暮らしも、迷うことばかり。仏教や仏事の「よく分からない」を、身近な言葉でひもときます。ときどき、父親として感じたことや、暮らしの小さな気づきも。
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