葬儀で長いお経を聞きながら、このお経はどのくらいで終わるんだろうと思った経験はありませんか?
意味はほとんど分からない。でも大切なものらしいから、静かに聞いている。
そして、ふと思うんです。「このお経、いったい何のために読んでいるんだろう?」
ここでは、浄土真宗の僧侶が、お経とはそもそも何か、なぜ葬儀でお経を読むのか、浄土真宗ではそのお経を誰に向けて読んでいるのかを、順番にお話しします。
読み終わるころには、葬儀でのお経の聞こえ方が、少し変わっているはずです。
結論:浄土真宗の葬儀のお経は、故人を成仏させる呪文ではありません
「お経って、亡くなった人のために読んでいるんですよね?」
これは、葬儀のあとによく聞かれる質問です。
そう思うのは、とても自然なことだと思います。実際、多くの宗派では、お経に故人を仏の道へ送り出す意味が込められています。
ただ実は、浄土真宗では考え方が少し違います。
一言で言うと、浄土真宗の葬儀でお経を読むのは、阿弥陀さまの徳をたたえ、残された私たちがその教えを聞くためです。
「え、故人のためじゃないの?」と思われたかもしれません。その理由を、お経の成り立ちから順番にたどってみましょう。
そもそもお経とは?お釈迦さまの言葉を伝える「聞き書き」
そもそもお経って、何が書いてあるんでしょう?誰が書いたものなんでしょう?
呪文のように聞こえるお経の中身は、実はお釈迦さまが説いた教えです。その多くは、お釈迦さまが弟子や人々に語りかける場面として書かれています。
ただ、お釈迦さまご自身が書き残したわけではありません。およそ2500年前にお釈迦さまが亡くなったあと、弟子たちが集まって「先生はこうおっしゃっていた」と記憶をつき合わせ、お釈迦様が弟子に口で伝えた教えをまとめていきました。
今でいえば、大事な会議のあとに出席者が集まって、「部長、あのときこう言ってたよね」「いや、こういう言い方だったよ」と議事録をすり合わせるようなイメージです。
ICレコーダーもメモアプリもなく、教えは文字ではなく、暗記して口で伝えるのが当たり前の時代です。
そうして口伝えで確かめられた言葉が、やがて文字として残され、インドから中国、そして日本へと届きました。。
私たちが葬儀で耳にしているお経は、2500年ほどかけてリレーされてきた言葉なんですね。
「如是我聞」は「私はこう聞きました」という意味
お経には、「如是我聞(にょぜがもん)」という言葉から始まるものが少なくありません。
意味は「私はこのように聞きました」です。
つまりお経は、「私が考えたすごい話」ではなく、「お釈迦さまからこう聞いた」という証言として始まっています。
「如是我聞」という訳ができるまで
インドの言葉で伝えられたお経の冒頭には、「このように私は聞いた」という決まった言い回しがあります。
中国語に訳された初期のお経では「聞如是(もんにょぜ)」と訳されることも多く、5世紀ごろに訳経僧の鳩摩羅什(くまらじゅう)が「如是我聞」と訳してから、これが定着したといわれています。
「聞いたことを伝える」という姿勢は、「聞く」ことを大切にする浄土真宗の教えにもつながっています。
浄土真宗の葬儀で読む「正信偈」や「和讃」もお経なの?
「浄土真宗の葬儀で読んでいたのも、お経ですよね?」
実はここ、混同されやすいポイントです。
浄土真宗の葬儀では、「正信偈(しょうしんげ)」や「和讃(わさん)」がよく読まれます。でもこれらは、お釈迦さまが説いたことをまとめた「お経」ではありません。浄土真宗を開いた親鸞聖人がつくられたものです。
正信偈は、阿弥陀さまの教えと、それを伝えてくださった方々をたたえる漢文の歌。和讃は、その教えを日本語のやわらかな歌にしたものです。
もちろん浄土真宗でも『仏説阿弥陀経』のように、お釈迦さまが説かれたお経そのものが読まれることもあります。
どれを読むかは、浄土真宗でも宗派によって異なる場合があり、寺院や地域によっても違います。
なぜ葬儀でお経を読むようになったの?
では、そもそもなぜ葬儀でお経を読むようになったのでしょうか。
ここは浄土真宗だけの話ではないので、まず仏教全体の一般的な考え方から見ておきます。
多くの宗派では「故人を仏の道へ送る」意味がある
多くの宗派では、葬儀は故人を仏の道へ導く儀式と考えられています。
宗派によっては、故人に仏弟子としての名前(戒名)を授けたり、「引導」と呼ばれる作法で仏の道へ送り出したりします。
その中でお経は、故人に仏さまの教えを聞かせる、あるいは読経の功徳を故人に振り向けるといった意味で読まれることがあります。いわゆる追善供養の考え方です。
これは、それぞれの宗派の教えにもとづく大切な意味づけです。
ただ、その中身は宗派ごとにかなり違います。「仏教の葬儀のお経=この意味」とひとくくりにはできません。
戒名と、浄土真宗の法名の違いについては、以下の記事で詳しく紹介しています。

日本で葬儀とお寺が深く結びついた背景
意外かもしれませんが、お釈迦さまの時代の出家者は、一般の人の葬儀を中心的に担っていたわけではないといわれています。
今当たり前となっている「お坊さんが葬儀を勤める」という形は、日本の長い歴史の中で定着していったものです。
特に江戸時代には、人々がどこかのお寺に必ず所属する「寺請制度」ができ、葬儀や法事とお寺の結びつきが一気に強まりました。
私たちが「葬儀といえばお坊さんの読経」と当たり前に感じているのは、こうした歴史の積み重ねでもあるんですね。
浄土真宗では、葬儀のお経を誰に向けて読むの?
ここからが、いちばんお伝えしたいところです。
今は僧侶である私も、子どものころ、祖父の葬儀で「お坊さんは、おじいちゃんにお経を聞かせているんだ」と思い込んでいました。
祭壇の中央には阿弥陀さまの絵像がかけられていて、お坊さんが本当に向いていたのはそちらだったと知ったのは、ずっとあとのことです。
一言で言うと、浄土真宗の葬儀のお経は、阿弥陀さまに向かって、ご遺族と一緒に読むものです。
阿弥陀さまの徳をたたえる「仏徳讃嘆」
では、なぜ阿弥陀さまに向かって読むのでしょう?
浄土真宗の儀式の根っこには、仏さまの徳をたたえ、そのご恩に感謝するという考え方があります。難しい言葉でいうと「仏徳讃嘆(ぶっとくさんだん)」です。
真宗大谷派の基本的な決まりでも、法要は、仏さまを礼拝し、よりどころとする教えの言葉を読み、仏さまの徳をたたえて感謝をあらわす儀式だと位置づけられています。
葬儀のお経も、この延長にあります。ここは、浄土真宗の教えとしてはっきりしている部分です。
イメージとしては、先生と生徒が向かい合う「授業」ではなく、親子が並んで同じ絵本をのぞきこむ感じに近いかもしれません。
僧侶がご遺族に背を向けているのは、失礼だからではありません。みなさんと同じ方向を向いて、一緒に阿弥陀さまの前に座っているからです。
故人の成仏のために読んではいけないの?
「でも、故人のためにお経を読んであげたい」
そう感じるのは、とても自然な気持ちです。
浄土真宗の教えでは、亡くなった方は、阿弥陀さまのはたらきによってお浄土に生まれ、すでに仏になっていると受けとめます。
私たちの読経が足りないから仏になれない、という考え方はしません。
親鸞聖人の言葉を記した『歎異抄』には、こんな一節があります。
「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだそうらわず」
親の追善供養のために念仏したことは一度もない、という意味です。
え、親鸞聖人は親不孝だったの?と驚きますよね。でも、ここで伝えたいことは親を大事にしなかったという話ではありません。
抱っこされている赤ちゃんを思い浮かべてみてください。赤ちゃんが落ちないのは、赤ちゃんが必死にしがみついているからではなく、親の腕がしっかり支えているからです。
亡くなった方の救いも、残された私たちの努力ではなく、阿弥陀さまが引き受けてくださっている。だから、「生きている私たちがもっとお経を読まないと」、と背負わなくていい。
ここからは私個人の受けとめですが、この歎異抄の言葉は残された人を責める言葉ではなく、肩の荷を下ろしてくれる言葉だと感じています。
葬儀は、亡くなった方をご縁に私たちが教えを聞く時間
では、浄土真宗の葬儀は何のためにあるのでしょう?
ひとつの答えは、亡くなった方をご縁として、残された私たちが仏さまの教えに出あう時間だということです。
人はいつか必ず命を終えます。頭では分かっていても、普段はスマホの通知や仕事の締め切りに追われて、そのことを忘れて暮らしていますよね。
大切な方を見送るとき、私たちはようやく立ち止まり、「自分もいつかこの道を行く」と感じます。
お経は、そんな私たちに「命とは何か」「何のために生きているのか」を問いかけてくれます。
浄土真宗では、「亡くなった方は、仏となって私たちを教えへと導いてくださる方」と受けとめます。浄土真宗で、亡くなった方を「仏さま」と仰ぐのはそのためです。
意味が分からないお経を聞いても、意味はあるの?
「でも正直、漢文のお経なんて聞いても分からないんですけど……」
その気持ちはよく分かります。私も子どものころは、お経がただの「長い呪文」にしか聞こえていませんでした。
意味の理解は、あとからでも大丈夫です。その場に身を置くことにも、ちゃんと意味があります。
言葉の意味より先に届くものがある
「お経の意味は全然分からなかったけど、なぜか涙が出ました」
以前、ある葬儀のあとに、ご遺族の方からこう言われたことがあります。
その方は、お経の言葉をひとつも理解していたわけではありません。それでも、読経の声を聞いているうちに、故人との思い出が次々に浮かんできたそうです。
これ、洋楽を聴くときと少し似ています。
歌詞の意味は分からないのに、メロディや歌声に心が動いて、何度も聴いてしまう曲ってありませんか?
あとから和訳を読んで、「こんなことを歌っていたのか」と、もう一度胸に響く。そんな経験がある方も多いと思います。
葬儀のお経にも、同じようなところがあります。
静かに手を合わせる時間。お香の香り。読経の声が部屋に響く感じ。
その中で、故人を思い、自分の命を見つめる時間が自然と生まれます。
お勤めの本(勤行集)を開くと、お経の聞こえ方が変わる
もし余裕があって、葬儀会場にお勤めの本(勤行集)が置かれていれば開いてみてください。
ふりがなが振られていることが多いので、目で追うだけでも、お経や正信偈がぐっと身近になります。
最近は、『正信偈』や『阿弥陀経』の現代語訳や解説の本も出ています。
中身を少し知ってから次の法事に出ると、「あのとき読んでいたのは、こんなことを言っていたのか」と、聞こえ方が少し変わってくるはずです。
葬儀のお経でよくある疑問
最後に、葬儀のあとによくいただく質問に答えていきますね。
一緒にお経を唱えてもいいの?
もちろん大丈夫です。浄土真宗では、むしろ歓迎されます。
浄土真宗のお勤めは、本来、僧侶だけでなく門徒(信者)も一緒に読むものです。『正信偈』は、門徒の各家のお内仏(お仏壇)の前で毎日読まれてきたお勤めでもあります。
分かるところだけ声を合わせる。最後の「南無阿弥陀仏」だけ一緒に称える。それだけでも十分です。
親戚の葬儀と読んでいるお経が違ったのはなぜ?
お経の種類や長さは、それぞれの宗派で決まります。
通夜、葬儀、火葬後のお勤めなど、場面ごとに読む内容が分かれていることも多いです。
同じ浄土真宗でも、宗派や寺院、地域によってお勤めの内容は異なります。
親戚の葬儀と違っていても、どちらかが間違っているわけではないので安心してくださいね。
亡くなってすぐに読むお経は何のため?
亡くなった直後に、枕元でお経を読むことがあります。
一般には「枕経」と呼ばれ、浄土真宗では宗派によって「枕勤め」「臨終勤行」などと呼ばれます。
浄土真宗以外の宗派では、故人が迷わないように枕元で読むお経として説明されることがあります。
ただ浄土真宗では、葬儀と同じく、故人のために読むのではありません。
亡くなった方をご縁として、残された私たちが仏さまの教えに出あうお勤めとして受けとめます。
本来は、臨終を迎えるご本人が、阿弥陀さまにお礼を申すお勤めだったともいわれています。
お経なしで見送っても大丈夫?
最近は、僧侶を呼ばない葬儀を選ぶ方もいます。家族ごとの事情があり、どちらが正しいということではありません。
浄土真宗の立場からいえば、お経がなかったからといって、故人が救われないということはありません。
ただ、お経を聞く時間は、残された私たちのための大切な時間でもあります。
迷ったときは、お付き合いのあるお寺に気軽に相談してみてください。費用や形について、一緒に考えてくれるはずです。
まとめ
お経は、お釈迦さまの教えを、弟子たちが「このように聞きました」とリレーしてきた言葉です。
葬儀でお経を読む意味は宗派によって違いますが、浄土真宗では、故人を成仏させるためではなく、阿弥陀さまの徳をたたえ、残された私たちが教えを聞くために読みます。
故人の救いは阿弥陀さまが引き受けてくださっているので、私たちが背負う必要はありません。だからこそ葬儀は、故人をご縁に、自分の命を見つめ直す時間になります。
次にお経を聞くときは、経本を開いて、ほんの少しだけ声を合わせてみてください。

