法事で正座がつらい…椅子に座ってもいい?失礼にならない理由を僧侶が解説

法事で正座がつらい…椅子に座ってもいい?失礼にならない理由を僧侶が解説

法事のお勤めが終わるころには、足の感覚がまったくない。
お焼香に呼ばれて立ち上がった瞬間、よろけてしまった。
そんな経験はありませんか?

葬儀や法事のあとに、「本当は椅子に座りたかったけど、失礼かなと思って言い出せなかった」という声をよく聞きます。膝や腰に不安がある方なら、なおさら気をつかいますよね。

この記事では、法事で椅子に座っても失礼にならないのか、そもそも正座はなぜ「正しい座り方」とされてきたのか、そして浄土真宗では法事の場で何を大切にしているのかを、僧侶の立場からお話しします。椅子に座るときの作法や、お寺へのお願いの仕方も紹介します。

目次

法事で椅子に座っても失礼じゃない?

一言で言うと、法事で椅子に座っても、まったく失礼ではありません。

正座は、仏さまの教えとして決められた座り方ではないからです。膝や腰がつらいのに、無理をして正座を続ける必要はありません。

私もお勤めにうかがった先で、椅子に座っている方を何度も見てきました。でも、それを「失礼だな」と感じたことは一度もありません。

むしろ気になるのは、つらそうに何度も座り直している方や、お焼香のときに立てなくなってしまう方のほうです。

浄土真宗の法事は、我慢比べの場ではありません。大切なのは座り方の「形」より、その場で何を聞くか。ここから、その理由を順番にお話しします。

そもそも正座は仏教の決まりなの?

「お寺といえば正座」。そんなイメージを持っている方は多いと思います。

実際、本堂も門徒宅の仏間も、畳の部屋がほとんどです。正座が当たり前に見えるのは、自然なことですよね。

ただ実は、仏教の教えとして「仏事は正座でなければならない」と決められているわけではありません。

正座は、仏教と一緒に伝わってきた座り方ではない

仏教はインドで始まり、長い時間をかけて日本に伝わってきました。

仏像の座り方や坐禅でおなじみなのは、両足を組む「結跏趺坐(けっかふざ)」です。膝をそろえて折りたたむ今の正座とは、別の座り方ですね。

日本で正座が礼儀として広まったのは、仏教が伝わってからずっと後のこと。つまり正座は、日本の暮らしの中で育ってきた座り方なんです。

お寺に正座が根づいたのは、畳の部屋だったから

では、なぜお寺には正座のイメージがこんなに強いのでしょうか。

いちばん大きな理由は、本堂や仏間が畳の部屋だったことです。椅子のない畳の上で、あらたまった場に向き合うとき、自然と選ばれたのが正座でした。

ここでのポイントは、正座は「仏教の作法」というより「畳の上の礼儀作法」として広まったということ。

では、その礼儀作法はいつごろ生まれたのか。ここが意外と知られていないところです。

正座が「正しい座り方」になったのは、実は意外と最近

私も最初は、正座は大昔から日本人の当たり前の座り方だと思っていました。

ところが調べてみると、どうもそうではないようです。

昔はあぐらや立て膝も、きちんとした座り方だった

中世までの日本では、あらたまった場でもあぐらや立て膝で座るのが普通だったといわれます。

戦国武将や公家の肖像画を思い出してみてください。足を組んだ、あぐらに近い姿で描かれているものが多いんです。

今の正座にあたる座り方は「危座(きざ)」や「かしこまる」と呼ばれていました。身分の高い人の前でひれ伏すときなど、限られた場面での姿勢だったそうです。

え、そうなの? と思いますよね。

江戸時代に広まり、明治以降に「正座」と呼ばれるように

この座り方が礼儀として広まったのは、江戸時代だと考えられています。

徳川将軍家が、あらたまった場での座り方として取り入れたのがきっかけ、という説があります。足がしびれてすぐには立ち上がれない姿勢は、相手に「逆らう気はありません」と示すことにもなったようです。

その作法が武家から町人へと広がっていきます。ちょうど同じころ、畳も町人の暮らしにまで行きわたり、綿の入った座布団も使われるようになりました。

そして「正座」という呼び方が定着したのは、明治以降のことのようです。戦前の学校教育で「正しい座り方」として教えられ、多くの人がそう受け止めるようになりました。

つまり、正座が「正しい座り方」と呼ばれるようになってから、まだ100年ほどしかたっていないということです。

コラム:江戸時代の健康本にも「ときどきは椅子に」
江戸時代の中ごろに広く読まれた健康の本『養生訓』(1713年刊)には、座るときは「正座」をするように、と書かれています。ところが、ここでいう正座は、今のあぐらのような座り方を指すといわれます。
さらに同じ本には、くつろぐときは楽な座り方でよく、ときどき椅子に腰かけると気のめぐりがよくなる、という趣旨のことも書かれているそうです。江戸時代の人も、体に負担の少ない座り方を大事にしていたんですね。

浄土真宗では、法事を何のための場と考えるの?

「とはいえ、法事は故人のためにお勤めする場。きちんとした姿勢で臨むのが礼儀では?」

そう考える方もいると思います。故人を大切に思う気持ちからくる、自然な感覚です。

ただ浄土真宗では、法事の意味を少し違うところに置いています。

法事は、亡き人をご縁に「私が教えを聞く場」

一言で言うと、浄土真宗の法事は、亡き人のために何かをしてあげる場ではなく、亡き人をご縁に、私たちが仏さまの教えを聞く場です。

浄土真宗では、亡くなった方は阿弥陀さまのはたらきによってお浄土に生まれ、仏となると受け止めます。ですから、残された私たちが善い行いを積んで故人に届ける「追善供養」という考え方はとりません。

では、法事で読まれるお経やご法話は、誰に向けられたものなのか。それは、今そこに座っている私たち自身です。

お経が誰のためのものかは、別の記事で詳しく紹介しています。

そう考えると、足のしびれに気をとられて、お話がまったく頭に入らない…というのは、少しもったいない気がします。

たとえるなら、お腹が痛いのを我慢しながら大事な研修を受けるようなもの。内容よりお腹の痛みが気になって、終わったころには「何の話だったっけ?」となってしまいます。

椅子に座って体を楽にし、お経やご法話に耳を傾ける。そのほうが法事の場にかなった過ごし方だと、私は思っています。

正しい姿勢が、救いの条件になることはない

もう一つ、浄土真宗の教えとして確かなことがあります。

浄土真宗は、自分の力で条件を整えて救われる「自力」の教えではありません。阿弥陀さまのはたらきによって救われる「他力」の教えです。

どれだけ姿勢を正したか、どれだけ長く正座に耐えたかが、救いの条件になることはありません。だから、椅子に座ったからといって「故人に申し訳ない」「仏さまに失礼だ」と心配する必要はないんです。

もちろん、仏さまの前で身を整えようとする気持ちは尊いものです。そういう思いで正座をされる方を否定するつもりはありません。ただ、それは人に強いるものではない、ということです。

蓮如上人は、門徒と同じ高さに座った

浄土真宗の歴史の中に、私の好きなエピソードがあります。

本願寺の第八代・蓮如上人は、高い立場にありながら、一段高い座ではなく、集まった人たちと同じ高さに座ったと伝えられています。その言葉や行いを記録した『蓮如上人御一代記聞書』には、おおよそ次のような意味の言葉が残っています。

「親鸞聖人が、信心をいただいた人はみな兄弟だとおっしゃったのだから、私もそのとおりにしている。同じ座にいれば、分からないことも尋ねてくれるだろうと思うのだ」(意訳)

蓮如上人が大切にしたのは、座る高さや形よりも、同じ場に集まって一緒に教えを聞き、分からないことを尋ね合えることだったのではないでしょうか。

正座か椅子か、という違いも、きっと同じだと思うんです。

お寺や宗派によって、大切にしていることは違う

ただし、ここまでの話は、真宗大谷派の僧侶としての受け止めです。浄土真宗でも宗派によって異なる場合がありますし、お寺ごとに大事にしている作法もあります。

また、禅宗の坐禅のように、座る姿勢そのものが修行の大切な一部になっている宗派もあります。法事の場でどこまで正座を大切にするかは、宗派やお寺によって考え方が分かれるところです。

気になるときは、お寺に一言たずねてみてください。体を気づかってのお願いを迷惑がるお寺は、まずないと思います。

法事で椅子に座るときは、どうすればいい?

「椅子に座っていいのは分かった。でも、どうお願いすればいいの?」

ここからは、実際に椅子を使うときのポイントをお話しします。

お寺なら住職に、門徒宅なら施主に一言でOK

お寺での法事なら、住職に「膝が悪いので、椅子をお借りできますか」と伝えれば十分です。

私の実感としても、本堂に椅子を並べているお寺はずいぶん増えてきました。並んでいなくても、折りたたみ椅子を用意しているお寺は多いと思います。

門徒宅での法事なら、施主(法事を主催する方)に一言伝えておきましょう。当日でも構いませんが、事前に伝えておくと、施主もお寺も準備がしやすくなります。

椅子の場所は、後ろや端だと落ち着く

椅子に座ると、正座の人より目線が高くなります。

後ろの方からお仏壇やご本尊が見えにくくならないよう、後ろの列や端のほうに置くのが、ちょっとした気づかいです。

ただ、これも決まりではありません。お寺の方が場所を案内してくれることも多いので、それに従えば大丈夫です。

合掌やお念仏は、椅子に座ったままで大丈夫

お勤めの始まりと終わりには、合掌してお念仏をとなえます。

これは椅子に座ったままで問題ありません。お念珠をお持ちなら両手にかけ、背筋を軽く伸ばして胸の前で手を合わせます。「南無阿弥陀仏」ととなえたら、合掌を解いて軽く頭を下げます。

頭を下げるタイミングなどの細かな作法は、浄土真宗でも宗派によって異なる場合があります。

お焼香がつらいときは、遠慮なくお寺の方に

お焼香で前に出るのが難しいときも、無理をしなくて大丈夫です。

香炉を順番に回して、座ったままお焼香する「回し焼香」という形もあります。門徒宅の法事では、もともとこの形をとることもよくあります。

香炉が回ってきたら、膝の上や手元で受け取ってお焼香をし、合掌。終わったら隣の方へ回します。香炉は熱くなっていることがあるので、受け取るときは気をつけてくださいね。

お焼香の回数や細かな作法は、宗派によって違います。分からなければ、お寺の方に「座ったままでもいいですか」と一言たずねれば、きちんと案内してもらえます。

椅子を頼むほどではないけど、正座を少しでも楽にするには?

「椅子をお願いするほどではない。でも、正座はやっぱりつらい」

そんな方に、ちょっとしたコツを紹介します。

いちばん手軽なのは、正座椅子を使うことです。お尻の下に置く小さな腰かけで、正座に近い姿勢のまま、足への負担をぐっと減らせます。折りたたんでかばんに入るものもあるので、法事用に一つ持っておくと安心です。

ほかにも、足の親指を軽く重ねて、ときどき上下を入れかえるのも効果的です。体重のかかる場所が少しずつ変わるので、しびれにくくなります。

しびれてきたら、つま先を立ててかかとの上に座る「跪座(きざ)」の姿勢をとってみてください。足の血のめぐりが戻りやすくなります。

それでもつらくなったら、途中で足を崩しても構いません。そっと横座りやあぐらにすれば十分です。

しびれた足で、急に立ち上がらないで
足がしびれたまま急に立つと、足に力が入らず転んでしまうことがあります。特にご高齢の方は、けがにつながりかねません。
お焼香やお勤めの終わりに立つときは、まず跪座の姿勢で少し待ち、感覚が戻ってからゆっくり立ち上がりましょう。

法事の正座について、よくある疑問

最後に、葬儀や法事のあとによく聞かれる質問をまとめました。

お勤めの途中で、足を崩してもいい?

大丈夫です。お勤めの最中でも、ご法話の時間でも、つらくなったら静かに足を崩してください。

僧侶の側からは、まったく気になりません。私たちも、つらくなったら足を崩しています。

それよりも、体を楽にして最後まで一緒にお参りしてもらえるほうが、ずっとうれしいものです。

自分だけ椅子だと、目立たない?

心配になる気持ちは、よく分かります。

ただ、法事で椅子に座る方は、今では本当に珍しくありません。年配の方だけでなく、膝のけがなどの事情で椅子を使う若い方もいます。

周りの方も「足がつらいのかな」と思うくらいで、悪く受け取る人はほとんどいないはずです。

施主として、椅子を用意しておいたほうがいい?

ご高齢の親族が参列されるなら、最初から何脚か用意しておくのがおすすめです。

「椅子もありますので、よかったらどうぞ」と一言あるだけで、気がねなく座れる方がぐっと増えます。お寺で法事をする場合は、事前にお寺へ相談しておくと安心です。

子どもは正座させたほうがいい?

小さな子に、長い時間じっと正座してもらうのは難しいものです。無理にさせなくて大丈夫です。

わが家の上の子も、お勤めが始まって数分で足を投げ出しています。それでも、周りの大人が手を合わせる姿を見て、見よう見まねで合掌を覚えていく。今はそれで十分だと思っています。

子どもと一緒の法事については、別の記事で詳しく紹介しています。

お坊さんは、正座がつらくないの?

正直に言うと、僧侶もしびれます。

慣れはありますが、長い法要が続けば足はつらいですし、膝を痛めて椅子を使ってお勤めをする僧侶もいます。

だからこそ、参列される方の「正座がつらい」という気持ちはよく分かります。どうか無理をなさらないでください。

まとめ:正座より大切なのは、教えに耳を傾けること

法事で椅子に座っても、失礼にはあたりません。正座は仏教の教えで決められた座り方ではなく、畳の暮らしの中で礼儀として広まったもの。「正しい座り方」と呼ばれるようになってから、まだ100年ほどです。

浄土真宗では、法事は亡き人をご縁に、私たちが仏さまの教えに出遇う場だと受け止めます。足のしびれをがまんすることより、体を楽にしてお経やご法話に耳を傾けることのほうが、ずっと大切だと私は思います。

椅子が必要なときは、お寺や施主に一言伝えるだけで大丈夫です。次の法事は、どうか安心してお参りしてください。

maru
浄土真宗の僧侶・二児の父
会社員から縁があって僧侶になりましたが、子育ても日々の暮らしも、迷うことばかり。仏教や仏事の「よく分からない」を、身近な言葉でひもときます。ときどき、父親として感じたことや、暮らしの小さな気づきも。
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