「なむあみだぶつ」
お葬式や法事で、きっと一度は耳にしたことがある言葉ですよね。おじいちゃんやおばあちゃんが、お仏壇の前で手を合わせながら称えていた姿を思い出す方もいるかもしれません。
一方で、インド料理店やヨガ教室で「ナマステ」と声をかけられて、「あれ?なんだか響きが似ている」と感じたことはありませんか。
いざ「南無阿弥陀仏ってどういう意味?」と聞かれると、意外と答えに詰まるものです。漢字を眺めても「南が無い…?」と、かえって分からなくなってしまいます。
ここでは、浄土真宗の僧侶の立場から、南無阿弥陀仏の意味をほどいていきます。あわせて、ナマステとの関係と、浄土真宗ではこの六文字をどう受けとめてきたのかもお話しします。
南無阿弥陀仏を一言で言うと?
「結局、どういう意味なの?」という方のために、先に答えからお伝えしますね。
一言で言うと、南無阿弥陀仏は「阿弥陀仏を依りどころとします」という意味の言葉です。
六つの漢字は、三つのまとまりに分けると分かりやすくなります。
| 漢字 | 元の言葉 (サンスクリット語) | 意味 |
|---|---|---|
| 南無(なむ) | ナマス/ナモー | 敬う、依りどころとする |
| 阿弥陀(あみだ) | アミタ | はかりしれない |
| 仏(ぶつ) | ブッダ | 目覚めた人 |
ポイントは、この漢字が「意味」ではなく「音」を写したものだということ。そして「南無」は、インドのあいさつ「ナマステ」の「ナマ」と同じところから生まれた言葉です。
ただ、浄土真宗ではここからもう一歩ふみこみます。南無阿弥陀仏を、私が仏さまに向けて言う言葉というだけでなく、仏さまのほうから私を呼んでいる声として受けとめてきました。
このあと、ひとつずつ順番に見ていきましょう。
なぜ漢字を見ても意味が分からないの?
「南が無い」「阿弥陀って、あみだくじのこと?」。漢字から意味を探ろうとすると、どうしても混乱してしまいますよね。
私も子どもの頃、本堂に掛かった「南無」の字を見て、「南が無いってどういうことだろう」と本気で不思議に思っていました。
ただ実は、南無阿弥陀仏の漢字には、文字そのものに意味はありません。なぜなら、古代インドの言葉の「音」に、近い発音の漢字を当てはめたものだからです。これを「音写(おんしゃ)」といいます。
身近な例でいうと、「珈琲(コーヒー)」「浪漫(ロマン)」「亜米利加(アメリカ)」と同じです。「亜米利加」を見て「お米の国かな?」と考えても、答えは出てきませんよね。南無阿弥陀仏も、それと同じことなんです。
お経が中国で漢語に翻訳されたときの工夫とは?
仏教はインドで生まれ、中国に伝わったときにお経が中国の言葉である漢語に翻訳されました。
そのとき使われた方法は、大きく分けて二つあります。ひとつは、意味をくみとって漢字に置きかえる「意訳(いやく)」。もうひとつは、音をそのまま漢字で写す「音写」です。
「南無」はまさに音写の代表です。もとは同じ言葉でも、「南摩」「南謨」「納莫」などと書かれていたこともあります。漢字が違っても同じ言葉。つまり、字の意味より音が大事だったわけです。
では「南無」を意訳するとどうなるのか。答えは「帰命(きみょう)」です。お勤めでよく読む正信偈の冒頭「帰命無量寿如来」の、あの「帰命」ですね。
ただ「帰命」と言われても、やっぱりピンとこないですよね。
一字ずつ見てみると、「帰」は帰る、身を寄せるという意味。「命」は、いのちです。合わせて「自分のいのちをまるごとあずけて、依りどころにする」という意味になります。
「南無」と違って、こちらは漢字そのものに意味がある。これが音写と意訳の違いです。
ちなみに親鸞聖人は、この「命」の字に、もうひとつ別の意味を読みとっています。それは、このあと浄土真宗の考え方のところでお話しします。
大切な言葉は、あえて訳さない?
中国でお経を翻訳した人たちの間には、「訳さずに音のまま残したほうがよい言葉がある」という考え方がありました。『西遊記』の三蔵法師のモデルとして知られる玄奘(げんじょう)が説いたと伝えられる「五種不翻(ごしゅふほん)」です。
たとえば「般若(はんにゃ)」は「智慧」と訳すこともできます。けれども、ふだん使う「ちえ」と同じにしてしまうと、言葉の尊さが軽く受けとられてしまう。だから音のまま残す、という理由が挙げられています。
ただし、この説が本当に玄奘本人のものかどうかは、研究者の間でも意見が分かれています。「そういう考え方が伝えられてきた」くらいに受けとめておくのがよさそうです。
「南無」とは?ナマステと同じ言葉って本当?
「南無とナマステは同じ言葉らしい」。そんな話を耳にしたことがある方もいるかもしれません。
え、本当に?と思いますよね。これは本当です。ただし「まったく同じ意味か」というと、少し違いがあります。
「南無」のもとになった言葉は?
「南無」のもとになったのは、サンスクリット語の「ナマス(namas)」という言葉です。
ナマスは「曲げる」「かがめる」という意味の言葉から生まれたとされ、体をかがめておじぎをする、敬うといった意味をもっています。
このナマスが、後ろに続く音によって「ナモー(namo)」のように形を変えます。その音を漢字で写したのが「南無」です。
「ナマステ」はどんな意味?
一方の「ナマステ」は、「ナマス」に「テ(あなたに)」がついた言葉です。つまり文字どおりには、「あなたにおじぎをします」「あなたを敬います」という意味になります。
並べてみると、成り立ちがよく分かります。
ナマス+テ(あなた)=ナマステ
ナモー(南無)+阿弥陀仏=南無阿弥陀仏
「誰に」敬意を向けるかが違うだけで、どちらも同じ「ナマス」から生まれた、兄弟のような言葉なんです。
ナマステと言うとき、インドやネパールの人たちは胸の前で両手を合わせます。私たちがお仏壇の前でする合掌と、よく似ていますよね。合掌も、もとをたどればインドで敬意をあらわす作法でした。
ナマステと南無は何が違うの?
同じルーツの言葉でも、使われる場面は違います。
ナマステは、インドやネパールで人と人とが交わす日常のあいさつです。会ったときにも、別れるときにも使われます。
それに対して仏教の「南無」は、仏さまや仏の教えに対して、心から帰依する(依りどころとする)ことをあらわす言葉です。
たとえるなら、同じ「おじぎ」でも、ご近所さんへの会釈と、「この人についていこう」と心に決めた師匠への礼とでは、重みがまったく違いますよね。南無は、その後者に近い言葉です。
「阿弥陀」と「仏」にはどんな意味があるの?
次は「阿弥陀仏」の部分です。「阿弥陀って、あみだくじと関係あるの?」と思った方もいるのではないでしょうか。
実は、少しだけ関係があります。あみだくじは、昔は線を放射状に引いていて、その形が阿弥陀さまの背中の光(後光)に似ていたことから名づけられた、という説があるんです。
「阿弥陀」は「はかりしれない」という意味
「阿弥陀」も、サンスクリット語の音写です。もとの言葉は「アミタ(amita)」。
「ア」は打ち消し、「ミタ」は「はかられた」という意味で、合わせて「はかることができない」「限りがない」という意味になります。
阿弥陀仏には、もとの名前が二つあります。
アミターユス=はかりしれない寿命をもつ仏(無量寿仏)
アミターバ=はかりしれない光をもつ仏(無量光仏)
この二つに共通する「アミタ」を写したのが「阿弥陀」です。
「光」と「いのち」に込められたものは?
浄土真宗では、この「光」と「いのち」を、阿弥陀仏の二つのはたらきとして大切にしてきました。無量光は、すべてを照らし出す智慧。無量寿は、どこまでも寄り添う慈悲です。そして親鸞聖人は、智慧と慈悲は別々のものではない、とも教えています。
光って、ただ明るくしてくれるだけのものではないんですよね。想像してみてください。夕方に部屋の電気をつけると、薄暗いうちは気づかなかった床のホコリや散らかりまで見えてしまいます。阿弥陀仏の智慧の光も、自分では見ないようにしている自分の姿まで照らし出す光だと、浄土真宗では教えられてきました。
これは私自身の話ですが、夜泣きが続いた日は、頭では分かっていても、わが子にさえイラッとしてしまうことがあります。人間の優しさには、どうしても限りがあるんですよね。だからこそ、「はかりしれない」という名前をもつ仏さまがいることに、私はどこかほっとします。
「仏」は亡くなった人のこと?
最後の「仏」は、サンスクリット語の「ブッダ(buddha)」を写した「仏陀」を、短くしたものです。
ブッダの意味は「目覚めた人」。真実に目覚めた方のことです。
日本では、亡くなった人を「仏さん」と呼ぶことがありますよね。そのため「仏=亡くなった人」というイメージを持っている方も多いのですが、もともとの意味はそうではありません。
ここまでをつなげると、南無阿弥陀仏は「はかりしれない光といのちをもつ、目覚めた方(阿弥陀仏)を、私は依りどころとします」という意味になります。
浄土真宗では、南無阿弥陀仏をどう受けとめてきたの?
ここまでの説明だと、南無阿弥陀仏は「私が、阿弥陀仏を敬います」という、私から仏さまへ向かう言葉ですよね。ナマステと同じ向きです。
ところが親鸞聖人は、この言葉の向きをくるりと反対にして受けとめました。ここからは、浄土真宗の教えの話です。
「帰命」は仏さまからの呼び声?
親鸞聖人は、主著『教行信証』の中で、南無阿弥陀仏の六文字をていねいに読み解いています。まず、こう書かれています。
「南無」の言は帰命なり。(『教行信証』行巻『真宗聖典』第二版194頁)
ここまでは、さきほどの「南無=帰命」と同じですね。ところがその少しあとで、こう言い切ります。
「帰命」は本願招喚の勅命なり。(同)
むずかしい言葉が並ぶので、ひとつずつほどいてみます。
本願(ほんがん)=すべての人を救いたいという、阿弥陀仏の願い
招喚(しょうかん)=招き、呼ぶこと
勅命(ちょくめい)=もとは天子の命令のこと。ここでは、仏さまからのまっすぐな呼びかけ
意訳すると、帰命とは、阿弥陀仏の本願が私を招き、呼び続けている声である、ということです。
私が仏さまに「よろしくお願いします」と頭を下げる言葉だと思っていたものが、実は、仏さまのほうから「私を依りどころとしなさい」と呼びかけてくる声だった、というわけです。
親鸞聖人は別の書物でも、「帰命」は南無のことだと述べたうえで、帰命とは「如来の勅命にしたがうこころなり」と説明しています(『尊号真像銘文』『真宗聖典』第二版634頁)。呼びかけられて、その声にしたがう心。それが、浄土真宗でいう「南無」です。
正直に言うと、私も最初にこの読み方を教わったときは、あまりピンときませんでした。
迷子の子どもを呼ぶ声にたとえると?
この「呼び声」という受けとめは、身近な場面に置きかえるとイメージしやすくなります。
以前、上の子とショッピングモールに出かけたとき、少し目を離したすきに姿が見えなくなったことがありました。あわてて名前を呼びながら探していると、売り場の向こうから「パパー!」と泣きながら走ってきました。
あとから振り返ると、子どもが私を呼ぶより先に、私のほうがずっと名前を呼び続けていたんですよね。子どもが「パパ」と声をあげられたのは、その声が届いたからでした。
そのとき、ふと気づきました。南無阿弥陀仏も、これに似ているのではないかと。私が称えるより先に、阿弥陀仏のほうが私を呼んでいる。私が口にする念仏は、その呼び声を聞いていくことでもあるのだ、と。
だから念仏は、自分の力で仏さまを動かすための呪文ではありません。私が仏さまに差し向けるものではなく、阿弥陀仏のほうから差し向けられたものだと、浄土真宗ではいただいているのです。
お仏壇の中にも「南無」と「帰命」が並んでいる?
真宗大谷派のお内仏(お仏壇)では、ご本尊の阿弥陀如来の両脇に、名号の掛け軸をお掛けすることがあります。
向かって右が「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」、左が「南無不可思議光如来(なむふかしぎこうにょらい)」です。
よく見ると、片方は「帰命」、もう片方は「南無」で始まっていますよね。意訳と音写、同じ意味の言葉が左右に並んでいるんです。
ほかの宗派では、南無阿弥陀仏をどう考えるの?
「南無阿弥陀仏って、浄土真宗だけの言葉?」と思う方もいるかもしれません。
ここで一度、話を整理しておきます。「南無=帰依する、依りどころとする」という意味は、宗派を問わず仏教に共通のものです。一方、さきほどの「帰命=阿弥陀仏からの呼び声」という受けとめは、親鸞聖人の教えにもとづく浄土真宗ならではの読み方です。
「南無」がつく言葉はほかにもある?
「南無」は、南無阿弥陀仏だけに使われる言葉ではありません。
日蓮宗などで称えられる「南無妙法蓮華経」や、真言宗で称えられる「南無大師遍照金剛」にも、同じ「南無」が入っています。
何を依りどころとするかによって、「南無」のあとに続く言葉が変わるわけです。「ナマス+誰に」という形は、ここでも同じですね。
南無阿弥陀仏を称える宗派でも、考え方は同じ?
南無阿弥陀仏を大切にする宗派は、浄土真宗のほかにもあります。法然上人を宗祖とする浄土宗や、一遍上人を祖とする時宗などです。
どの宗派も阿弥陀仏の名を称えることを大切にしていますが、念仏をどう位置づけるかには、それぞれの教えの違いがあります。
浄土真宗では、念仏の回数や自分の心がけで救いが決まる、とは考えません。念仏は私の手柄ではなく、阿弥陀仏の呼び声そのもの。だから、称えた回数を数えたり、たくさん称えたことを誇ったりする必要もありません。
南無阿弥陀仏についてよくある疑問
最後に、葬儀や法事のあとによく聞かれる質問をいくつか取り上げます。
「なむ」と「なも」、どちらが正しいの?
どちらも間違いではありません。
一般に、真宗大谷派(東本願寺)では「なむ」、浄土真宗本願寺派(西本願寺)では「なも」と称えます。意味は同じで、発音の違いです。
念仏が「なんまんだぶ」と聞こえるのも、長く口になじんできた称え方のひとつです。
意味が分からないまま称えてもいいの?
もちろん大丈夫です。
念仏は、称えながら、聞きながら、少しずつその意味に出遇っていくものだと、私は受けとめています。
お経の意味が分からないまま読んでいいのか、という話は、正信偈の記事で詳しく紹介しています。
南無阿弥陀仏は、亡くなった人へのお祈りなの?
葬儀や法事で称えるので、そう思われることの多い言葉です。
ただ浄土真宗では、念仏を、亡くなった人に何かを届けるために称えるものとは考えません。亡くなった方をご縁として、私自身が阿弥陀仏の呼び声を聞かせていただく。それが浄土真宗の受けとめです。
親鸞聖人も、亡き父母の供養のために念仏を称えたことは一度もない、という言葉を残しています(『歎異抄』第五条)。
お経や念仏が誰のためのものかについては、別の記事で詳しく紹介しています。
子どもに意味を聞かれたら、どう答えればいい?
わが家の上の子も、お勤めのまねをしながら「なむあみだぶって、なあに?」と聞いてきたことがあります。
そんなとき、私はこんなふうに答えています。
「阿弥陀さまっていう、すごく大きな光の仏さまがいてね。その仏さまに『たよりにしています』って言う言葉なんだよ。それとね、阿弥陀さまのほうも、『ここにいるよ』ってずっと呼んでくれているんだよ」
細かい言葉の意味よりも、呼んでいる、呼ばれている、という関係が伝われば十分だと思います。
子どもと一緒にお参りするときの心配ごとについては、別の記事で詳しく紹介しています。
まとめ
南無阿弥陀仏の六文字は、古代インドの言葉の音に漢字を当てはめたものです。「南無」はナマス(敬う・依りどころとする)、「阿弥陀」はアミタ(はかりしれない)、「仏」はブッダ(目覚めた人)。全体で、はかりしれない光といのちの仏さまを依りどころとします、という意味になります。
そして「南無」と「ナマステ」は、同じ「ナマス」から生まれた兄弟のような言葉です。ナマステは人と人とのあいさつ、南無は仏さまへの帰依をあらわす言葉、という違いがあります。
浄土真宗では、親鸞聖人の言葉にもとづいて、南無阿弥陀仏を阿弥陀仏のほうから私を呼んでいる声、そしてそれに応える念仏として受けとめてきました。
次にお葬式や法事で「なむあみだぶつ」を耳にしたときは、呼ばれているのはほかならぬ私なのかもしれない、と少しだけ思い出してもらえたらうれしいです。

