正信偈とは?意味と読み方を浄土真宗の僧侶がやさしく解説

正信偈とは?意味と読み方を浄土真宗の僧侶がやさしく解説

法事のとき、お坊さんからお勤めの本を渡されて、「きみょうむりょうじゅにょらい〜」と、親戚みんなで声を合わせた。そんな経験はありませんか?

目で文字を追うのに必死で、意味を考える余裕なんてなかった。でも、最初の一節だけは、なぜか耳に残っている。

あれが、浄土真宗で一番よく読まれている「正信偈(しょうしんげ)」です。いったい何が書いてあって、なぜ法事のたびに読むのでしょうか?

この記事では、正信偈とは何か? そしてその意味と読み方を、浄土真宗の僧侶がやさしく紹介します。

先に、この記事の流れをざっくりお伝えしておきます。

正信偈がどんなものか、なぜ法事で読むのか、どうやって広まったのか。そのあと、耳に残る句の意味と、読み方のコツを紹介します。最後に、よく聞かれる疑問にもお答えします。

目次

正信偈とは?一言でいうと「親鸞聖人の喜びのうた」

「正信偈って、そもそも何なの?」

ずばり言うと、正信偈は、親鸞聖人が「阿弥陀さまの教えに出遇えた喜び」をうたった詩です。

正式な名前は「正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)」。親鸞聖人の主著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』のうち、「行巻(ぎょうのまき)」の最後に収められています。

形は、漢字7文字の句が120句。全部で840文字です。

中身は、大きく前半と後半に分かれます。

前半は、『仏説無量寿経』というお経にもとづいて、阿弥陀さまの願いとはたらきをたたえる部分。

後半は、その教えをインド・中国・日本で伝えてくれた7人の高僧をたたえる部分です。

正信偈は「お経」じゃないの?
厳密にいうと、「お経(経典)」は、お釈迦さまが説いた教えをまとめたものです。
正信偈は親鸞聖人が作った「偈(げ)」なので、正確にはお経ではありません。
「偈」は、仏さまの教えや徳を、決まった字数の句でたたえる詩のことです。

なぜ法事やお参りで正信偈を読むの?

「みんなで読むのは、亡くなった人のためなんでしょ?」

そう思っている方は多いと思います。私も子どもの頃は、法事で読むのは「故人に届けるもの」だと、なんとなく思っていました。

お経などは故人のために読むものでは?

この感覚は、決して間違いではありません。

仏教全体を見わたすと、お経を読んだ功徳を故人にふりむける「追善供養(ついぜんくよう)」という考え方があります。多くの宗派では、法事を故人のための仏事として大切にしています。

浄土真宗では「私が聞かせていただく」ために読みます

ただ実は、浄土真宗では考え方が少し違います。

浄土真宗では、亡くなった方は阿弥陀さまのはたらきによって、すでに仏さまとなっていると受けとめます。残された私たちが何かを足さないと救われない、という考え方はしません。

え、じゃあ読まなくていいの? と思いましたか。

そうではありません。浄土真宗で正信偈を読むのは、阿弥陀さまの徳をたたえ、その教えを、今生きている私たちが聞かせていただくためです。

例えるなら、故人に「荷物を送る」時間ではなく、故人が結んでくれたご縁を通して、教えを「受け取る」時間。ここは、浄土真宗の教えとして大切なポイントです。

だから、うまく読めなくても、途中でどこを読んでいるか分からなくなっても、故人に何か悪いことが起きるわけではありません。安心してくださいね。

浄土真宗が追善の考え方をとらない理由は、「法名と戒名の違い」を紹介した記事でも触れています。

正信偈はいつから読まれているの?蓮如上人と印刷の話

「正信偈って、親鸞聖人の時代から毎日読まれていたの?」

実は、そうではありません。

正信偈を作ったのは鎌倉時代の親鸞聖人ですが、門徒(浄土真宗の教えを聞いて生きる人たち)のみなさんが日常的に読むようになったのは、親鸞聖人が亡くなってから、およそ200年たってからのことです。

きっかけを作ったのは、室町時代の蓮如上人(れんにょしょうにん)です。

蓮如上人は、越前(今の福井県)の吉崎に滞在していた文明5年(1473年)に、正信偈と「三帖和讃(さんじょうわさん)」を開版しました。開版とは、版木を彫って印刷できるようにすることです。

当時、本は一冊ずつ手で書き写すのが当たり前でした。今でいえば、手書きのノートしかなかったところに、いきなりコピー機が登場したようなもの。正信偈が一気に身近になった出来事でした。

そして、正信偈に念仏と和讃を合わせたものが、朝夕のお勤めとして定着していきます。

法事で「正信偈のあとに『なむあみだぶつ』と続いて、和讃を読む」という流れがあるのは、この蓮如上人の時代からつながる伝統なんです。

正信偈の意味は?耳に残る句をピックアップ

120句すべてを訳すと、それだけで一冊の本になってしまいます。

ここでは、法事で耳に残りやすい句と、意味を知ると正信偈がぐっと身近になる句を選んで紹介しますね。句の意味は、分かりやすさを優先した私の意訳です。

冒頭の「きみょうむりょうじゅにょらい」はどういう意味?

帰命無量寿如来(きみょう むりょう じゅ にょらい)
南無不可思議光(なむ ふかしぎこう)

意訳すると、「限りないいのちの如来に帰依します。思いはかることのできない光の如来に帰依します」となります。

「帰命」と「南無」は、どちらも「よりどころとします」「敬い信じます」という意味です。

そして、「無量寿如来」も「不可思議光」も、どちらも阿弥陀さまのことです。

つまり、浄土真宗でいつも称える「南無阿弥陀仏」も、同じ意味を表しています。

え、同じことを2回も3回も言ってるの? そうなんです。

阿弥陀さまは、限りないいのちと、限りない光をもった仏さまとして表されます。いつの時代であっても、どこにいる人であっても届いているはたらき、ということですね。

言葉を変えて何度もくり返すところに、親鸞聖人が阿弥陀仏をいかに讃えていたかを伺い知ることができます。

「煩悩を断たずに涅槃を得る」ってどういうこと?

不断煩悩得涅槃(ふだん ぼんのう とく ねはん)

意訳は、「煩悩を断ち切らないまま、さとりを得る」です。

一般的な仏教のイメージでは、修行をして欲望や怒りを少しずつ消していき、さとりに近づいていきますよね。それも、仏教の大切な道です。

ただ、日々の暮らしを振り返ってみると、どうでしょう。

怒らないと決めた日に限って、家族にきつく言ってしまう。人と比べないと思っても、SNSを開けば、つい比べてしまう。人が持っているものをうらやましく思ってしまう。

一言でいうと、煩悩は、なくそうと思ってなくせるものではないんです。

親鸞聖人は、そんな自分のありのままの姿をごまかしませんでした。そのうえで、煩悩をかかえたこの身のままで、阿弥陀さまのはたらきによって仏になる道がひらかれていると受けとめたんですね。

ひとつ気をつけたいのは、「煩悩があるんだから好きに生きていい」という意味ではないことです。自分の煩悩から目をそらさず、それでも見捨てられていない。そういう話です。

「川の水が海に入ると同じ味になる」とは?

凡聖逆謗斉回入(ぼんしょう ぎゃくほう さいえにゅう)
如衆水入海一味(にょ しゅすい にゅうかい いちみ)

意訳すると、「凡夫も聖者も、重い罪を犯した人も、教えをそしった人も、等しく阿弥陀さまの願いに帰すれば、いろいろな川の水が海に入って一つの味になるようなものだ」となります。

きれいな川の水も、濁った川の水も、海に流れこめば、みんな同じ塩の味になります。

職場でいえば、肩書きも成績も関係なく、全員が同じ仲間として迎えられるようなもの。

人を「立派な人」「だめな人」と分けずに、みんな同じように包みこむ。それが阿弥陀さまの願いだと、親鸞聖人はこのたとえで伝えています。

「雲の下でも明るい」に込められた意味は?

譬如日光覆雲霧(ひにょ にっこう ふうんむ)
雲霧之下明無闇(うんむ しげ みょう むあん)

意訳は、「たとえるなら、太陽が雲や霧におおわれていたとしても、その下にも明かりが届いていて、真っ暗ではないようなものだ」です。

この句は、すぐ前の「摂取心光常照護(せっしゅしんこう じょうしょうご)」を受けています。

阿弥陀さまの光は、私たちが気づいていてもいなくても、いつも照らし、護ってくださっている。その光によって、私たちの心の闇は、もうすでに破られていると、正信偈ではうたっています。

では、ここでいう雲や霧は何なのか?

一言でいうと、私たちの欲望や怒り、憎しみといった煩悩のことです。

心の闇が破られても、煩悩はなくなりません。雲や霧のようにわいてきて、阿弥陀さまからいただいた信心を、覆い隠してしまいます。

え、それじゃ意味がないんじゃないの? と思うかもしれません。

ただ、思い出してみてください。曇りの日の昼間は、どれだけ空が厚い雲におおわれていても、夜の暗さとはまったく違いますよね。雲の上に、ちゃんと太陽があるからです。

同じように、煩悩に覆われていても、阿弥陀さまからいただいた信心が、私に届かなくなったわけではありません。

煩悩がすっかりなくなってから信心に気づく、ということではないんですね。

煩悩をかかえたこの身のままで、信心に目覚めることがある。煩悩は、信心の妨げにはならない。この句は、そう教えてくれています。

もうひとつ、この句から味わえることがあります。

明るいところに出ると、部屋のホコリがよく見えますよね。同じように、阿弥陀さまの光に照らされることで、欲望や憎しみにふりまわされている自分の姿や、教えに背を向けている自分の姿が、かえって見えてくるのではないでしょうか。

後半に出てくる「七高僧」って誰?

正信偈の後半は、「印度西天之論家(いんど さいてん しろんげ)」という句から始まります。

ここから、阿弥陀さまの教えを伝えてくれた7人の高僧が、一人ずつ順番に登場します。

親鸞聖人は、自分が教えに出遇えたのは、遠い国、遠い時代から教えをつないでくれた人たちがいたからだ、と感じていました。リレーのバトンが、何百年もかけて自分の手元に届いた。そんな感覚に近いかもしれません。

正信偈に登場する七高僧
インド:龍樹(りゅうじゅ)菩薩、天親(てんじん)菩薩
中国:曇鸞(どんらん)大師、道綽(どうしゃく)禅師、善導(ぜんどう)大師
日本:源信(げんしん)僧都、源空(げんくう)上人
源空上人は、親鸞聖人の師である法然上人のことです。

そして正信偈は、この2句で結ばれます。

道俗時衆共同心(どうぞく じしゅう ぐどうしん)
唯可信斯高僧説(ゆいかしん し こうそうせつ)

意訳は、「出家した人も在家の人も、今の時代を生きる人々よ、心を同じくして、ただこの高僧たちの教えを信じなさい」です。

私たち一人ひとりに「一緒にこの教えを聞いていこう」と呼びかけて、正信偈は終わるんですね。

正信偈の読み方は?節や宗派による違い

「お坊さんの声が上がったり下がったりして、ついていけない…」

法事のあとに、よく聞く声です。正信偈は、漢字を音読みするだけでなく、独特の節(メロディー)をつけて読むからなんです。

正信偈の節にはいくつか種類があるの?

あります。同じ正信偈でも、場面によって節が変わります。

真宗大谷派では、日常のお勤めで「草四句目下(そうしくめさげ)」という節がよく使われ、法要の場面に応じて別の節で読むこともあります。

浄土真宗でも宗派によって節の名前や読み方は異なる場合があります。本願寺派、高田派、佛光寺派など、それぞれに受け継がれてきた読み方があり、ふりがなが少し違うこともあります。

同じ宗派の中でも、地域ごとに細かな違いもあります。

「どれが正解か」という話ではなく、それぞれの場所で大切に受け継がれてきたもの。なので、いつもお参りしているお寺の読み方に合わせるのが一番です。

初めてでも正信偈を読むコツは?

お勤めの本の漢字の横には、ふりがなと節の記号がついています。初めてなら、節は無理に合わせず、ふりがなだけを目で追えば大丈夫です。

どこを読んでいるか分からなくなったら、隣の人に小声で「今どこですか?」と聞いてかまいません。

僧侶がそれを見て、嫌な気持ちになることはありません。

声を出しにくいときは、聞いているだけでもかまいません。

正信偈は教えを「聞く」ためのものなので、耳を傾けているだけでも、十分に意味のある時間です。

浄土真宗で正信偈が大切にされてきた理由は?

ここまで読んで、「なぜ浄土真宗では、ここまで正信偈を大切にするんだろう」と思った方もいるかもしれません。

正信偈は、親鸞聖人の主著である『教行信証』の大切なところを、声に出して味わえる形にまとめたものです。

『教行信証』は分厚く難しい本で、僧侶でも読むのに長い時間がかかります。その要が、840文字に詰まっているんですね。

そのうえで、正信偈は「教えの説明書」というより、「喜びの表明」だと私は受け止めています。

阿弥陀さまの教えの筋道もたくさん書かれていますが、その根っこにあるのは、「こんな私が、この教えに出遇えた」という親鸞聖人の驚きと喜びです。

家電の取扱説明書は、一度読んだらしまってしまいますよね。でも、大切な人からの手紙は、何度でも読み返したくなる。正信偈は、まさに親鸞聖人から現代に生きる私たちへと届けられた手紙なんじゃないでしょうか。

毎日読んでいるうちに、ある日ふと「あ、この句はこういうことだったのか」と腑に落ちる。意味を完璧に理解してから読むものではなく、読みながら少しずつ出遇っていくもの。

もしかしたら、みなさんのご先祖様も、何百年とそうやって正信偈を受け継いできたのかもしれません。

正信偈についてよくある疑問

最後に、法事やお参りのあとによく聞かれる質問にお答えします。

浄土真宗以外の宗派でも正信偈は読むの?

基本的には、「浄土真宗」の各派で読まれるものです。

名前の似ている浄土宗でも、一般的なお勤めでは正信偈は読まれません。宗派ごとに、大切にしているお勤めの内容が違うんですね。

親戚の法事が別の宗派で、読まれるものが違っていても、驚かなくて大丈夫です。

家で正信偈を読むときに決まりはある?

お内仏(お仏壇)の前で、お勤めの本を開いて読むのが一般的です。

毎日のお勤めが続いたら、それはとても有り難いことです。ただ、ご命日や、気持ちが向いた日だけでも最初は大丈夫です。

意味が分からないまま読んでも大丈夫?

大丈夫です。

多くの方が、「意味は分からないけど、子どもの頃から聞いていた」というところから、正信偈とのつきあいが始まっています。

ただ、冒頭の2句だけでも意味を知っておくと、お勤めの時間の感じ方が少し変わるはずです。

子どもが一緒に読むのは失礼じゃない?

失礼ではありません。

大きな声で読んでしまっても、途中で飽きてしまっても大丈夫。正信偈は、大人も子どもも一緒に聞いていくものです。

そうやって親から子、子から孫へ受け継がれてきました。

子どもと法事に参加するときの心配ごとは、以下の記事で詳しく紹介しています。

まとめ

正信偈は、親鸞聖人が阿弥陀さまの教えに出遇えた喜びを、7文字120句にこめてうたったものです。前半では阿弥陀さまの願いを、後半では教えをつないだ7人の高僧をたたえています。

浄土真宗では、正信偈を亡くなった方のための功徳として読むのではありません。亡くなった方をご縁に、今を生きる私たちが仏さまの教えを聞かせていただく時間として、大切にしています。

節や読み方は、宗派やお寺によって違います。正しく読めているかを気にしすぎず、手元のお勤めの本と、お参りしているお寺に合わせれば大丈夫です。

次に「きみょうむりょうじゅにょらい」と声を合わせるとき、「限りないいのちの仏さまを、よりどころにします」という意味を、少しだけ思い出してもらえたらうれしいです。

maru
浄土真宗の僧侶・二児の父
会社員から縁があって僧侶になりましたが、子育ても日々の暮らしも、迷うことばかり。仏教や仏事の「よく分からない」を、身近な言葉でひもときます。ときどき、父親として感じたことや、暮らしの小さな気づきも。
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