「今日はお寺に、お説教を聞きに行ってくるね」
祖母がそう言って出かけるのを見て、「お寺で怒られに行くの?」と首をかしげたことはありませんか。
法事のあと、お坊さんが話をする時間を年配の方が「お説教」と呼んでいて、ちょっと身構えた人もいるかもしれません。今の感覚だと、説教といえば「叱られること」ですよね。
この記事では、浄土真宗の僧侶として、法話をなぜ「お説教」と呼ぶのかをお話しします。言葉の本来の意味、怒られるイメージがついた理由、日本での歴史、そして浄土真宗が「聞くこと」をここまで大切にするわけまで、順番に見ていきます。
結論:「お説教」は、もともと仏さまの教えを説くお話のこと
一言で言うと、「説教」は本来、仏教の教えを説き聞かせることを指す言葉です。
「叱る」「小言を言う」という意味は、あとから広がった使い方。お寺でいう「お説教」と「法話」は、中身としてはほぼ同じものだと考えてもらって大丈夫です。
「え、じゃあ怒られる場じゃないの?」
はい。少なくともお寺のお説教は、誰かを叱るための時間ではありません。
もうひとつ、僧侶の立場から付け加えると、お説教は、話している僧侶自身も一緒に教えを聞いている時間です。ここが、日常の「説教」といちばん違うところかもしれません。
そもそも「説教」とはどういう意味の言葉?
私も子どもの頃は、「お説教」と聞くと、正座させられて長々と叱られる場面しか思い浮かびませんでした。
ところが漢字をよく見ると、「説」は説く、「教」は教え。つまり説教とは、教えを言葉で説き明かすことです。
国語辞典を引いても、一番はじめに出てくるのは、宗教の教えを信者などに口で説き明かす、という意味です。叱る、言い聞かせるという意味は、そのあとに載っています。
ちなみに、仏教の教えを説くことを表す言葉は、ほかにもたくさんあります。説法(せっぽう)、法談(ほうだん)、談義(だんぎ)、唱導(しょうどう)。どれも、お坊さんが教えを語ることを指す言葉です。
「説経」と「説教」、字が違うのはなぜ?
古くは「説経(せっきょう)」と書くことも多くありました。こちらは「お経(経典)の意味を説く」という字です。
平安時代の『枕草子』にも、清少納言が「説経の講師は顔よき」と書いた有名な一節があります。説経をするお坊さんは顔がいいほうがいい、そのほうがありがたい話も心に入ってくる……という、なかなか正直な感想です。
それくらい、お坊さんの話を聞きに行くことは、平安時代の貴族にとっても身近なことでした。
その後、「説経」の字は、節をつけて語る芸能(説経節)の名前として残っていきます。教えを説くこと全般を指す言葉としては、今では「説教」の字が一般的です。
法話・説法・説教の違いは?
説法(せっぽう):仏さまや僧侶が教えを説くこと。「お釈迦さまの説法」のように使います。
説教(せっきょう):教えを説き聞かせること。日本では、節をつけた語りなど「話芸」として発展した歴史もあります。
法話(ほうわ):仏法についてのお話。今のお寺の案内で、いちばんよく使われる呼び方です。細かな使い分けはありますが、お寺で僧侶がする「お話」を指す場合は、ほぼ同じものと考えて差し支えありません。
なぜ「お説教」=怒られる、というイメージになったの?
確かに今は、「上司に説教された」「親のお説教が長い」のように、説教といえば「叱られること」を思い浮かべる人がほとんどですよね。
ただ実は、この意味は仏教の「説教」から派生したものです。
いつから広まったのか、はっきりした時期は分かっていません。ただ、言葉の成り立ちを考えると、自然な流れが見えてきます。
お寺の説教は、教えをよく学んだ僧侶が、一段高い「高座(こうざ)」から、集まった人たちに語る形で行われてきました。
この「知っている人が、知らない人に教え諭す」という形だけが日常の言葉に残り、「目上の人が言い聞かせる」→「くどい小言」へと意味が広がっていったと考えられます。
叱る「説教」とお寺の「説教」は何が違う?
一番の違いは、言葉の矢印がどこに向いているかだと私は思っています。
上司のお説教は、「あなたが変わりなさい」という話です。矢印は、まっすぐ聞き手に向いています。
お寺のお説教は少し違います。仏さまの教えに照らされるのは、聞いている人だけではありません。話している僧侶も、同じように照らされる側にいます。
僧侶の間では「法話は、まず自分が聞くもの」と言われることがあります。
実際、法話の準備をしていると、いちばん耳が痛いのは自分だったりします。「人にはこう話しているけれど、自分はどうなんだ」と。
お説教は、日本の「話芸」のルーツでもあった
「お寺の話って、地味で退屈なんでしょう?」
そう思っている人には、意外な話かもしれません。実はお寺の説教は、日本の語りの芸と深いつながりがあります。
平安・鎌倉時代:語りの名人たちが登場
平安時代の終わりから鎌倉時代にかけて、天台宗の僧侶だった澄憲(ちょうけん)・聖覚(せいかく)という親子が、「安居院流(あぐいりゅう)」と呼ばれる説教の流派を確立しました。
言葉に抑揚をつけ、聞く人の心に響くように教えを語る技法です。
この聖覚という人は、浄土真宗とも深い縁があります。法然上人の念仏の教えを分かりやすく説いた『唯信鈔(ゆいしんしょう)』という書物を書いたのが、この聖覚です。
親鸞聖人はこの『唯信鈔』を何度も書き写し、関東の門弟たちにも読むよう勧めました。さらに、その解説書として『唯信鈔文意』まで書かれています。お手紙の中では、聖覚のことを「よき人」と呼んでいます。
浄土真宗とお説教の縁は、宗祖・親鸞聖人の時代から続いているわけです。
江戸時代:浄土真宗で花開いた「節談説教」
安居院流の流れは浄土宗や浄土真宗に受け継がれ、とくに浄土真宗で大きく栄えました。
それが「節談説教(ふしだんせっきょう)」です。言葉に節をつけ、身ぶりも交えながら、聞く人の感情に訴えるように語る説教のこと。江戸時代には地域ごとにさまざまな流儀が生まれ、能登節、加賀節などと呼ばれました。
当時の門徒にとって、お寺のお説教は教えを聞く場であると同時に、心を揺さぶる「語り」に触れる場でもあったのだと思います。
節談説教の型「五段法」
節談説教には、近世に整えられた「五段法」と呼ばれる構成があります。
讃題(さんだい):はじめに聖典の言葉を掲げる
法説(ほうせつ):その言葉の意味、教えの筋道を説く
譬喩(ひゆ):たとえ話で分かりやすくする
因縁(いんねん):実際にあった話やエピソードで具体的に示す
結勧(けっかん):もう一度教えに戻って、まとめる
今の法話でも、最初に聖典の一節を読み上げてから話し始めることがよくあります。あれは、この「讃題」の流れを受け継いだものとも言えます。
落語など、ほかの語り芸にもつながっている
説教の語りは、お寺の外にも広がっていきました。
節をつけた説教から派生した「説経節」は、民衆の芸能として各地で語られるようになります。また、落語の祖とされる江戸時代初期の安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)も、説教をする僧侶のひとりだったとされています。
お説教は、日本の話芸を生み出した土台のひとつでもありました。
ただ、近代に入ると、感情に訴える語りは「芸に寄りすぎている」と見られることもあり、節談説教はしだいに衰退していきました。戦後は急速に姿を消し、今では受け継ぐ人もごくわずかです。それでも、その伝統を受け継ごうとする僧侶や、聞く会を開くお寺もあります。
浄土真宗では、なぜ「お説教を聞く」ことを大切にするの?
ここからは、浄土真宗の考え方の話です。
答えはシンプルで、浄土真宗は「聞く」ことを通して教えに出遇う仏教だからです。
自分の力で修行を積み重ねて悟りを目指す道ではなく、阿弥陀仏の願いを聞かせていただく道。だから浄土真宗では、お説教・法話を聞くことが、信仰の中心に置かれてきました。
本願寺の第八代・蓮如上人の言葉に、こんな一節があります。
「ただ、仏法は、聴聞にきわまることなり」(『蓮如上人御一代記聞書』)
仏法は、聞くことに尽きる。それくらい、聞くことを大切にされました。
同じ箇所には、こんなたとえも出てきます。固い石も、やわらかい水がしたたり続ければ、やがて穴があく。どんなに信じられない心の人でも、聞くことを心にかけていけば、仏さまのお慈悲によって信心をいただくことができる——そんな内容です。
浄土真宗でいう「聞く」は、勉強とどう違う?
「聞く」というと、知識を増やすことのように思えます。でも、浄土真宗でいう「聞く」は少し意味が違います。
親鸞聖人は『教行信証』の中で、「聞く」とは、阿弥陀仏の願いがなぜ起こされ、どのように成し遂げられたのかを聞いて、疑いの心がなくなることだ、と示されています。
つまり、情報を覚えることではなく、自分に向けられた願いに気づかされること。
身近なたとえで言えば、子どもが言葉を覚えていく姿に少し似ています。わが家の上の子も、誰かに文法を教わったわけではありません。毎日名前を呼ばれ、話しかけられているうちに、ある日ふっと言葉が出てきました。
一回聞いて全部分かる、というものではない。何度も聞くうちに、ふと「これは私のことだった」と響いてくる。お説教を繰り返し聞くことには、そんな意味があります。
法事のあとにお話があるのはなぜ?
「お経のあとに、なぜお話をするんですか?」
葬儀や、門徒宅での法事のあとによく聞かれる質問です。
浄土真宗では、法事は亡くなった方に功徳を届けるための場ではなく、亡くなった方をご縁として、遺された私たちが仏法を聞く場と受け止めています。だから法話は「おまけ」ではなく、法事の大事な柱のひとつです。
他の宗派では、読経などの功徳を故人に振り向ける「追善供養」という考え方を大切にするところも多くあります。浄土真宗は、この追善供養の考え方をとりません。亡くなった方は、阿弥陀仏のはたらきによってすでに浄土に生まれ、仏となられていると受け止めるからです。
なお、法事で法話をするかどうか、どのくらいの長さで話すかは、浄土真宗でもお寺や地域によって異なる場合があります。
お説教まわりの言葉
聞法(もんぽう):仏法を聞くこと。浄土真宗でとても大切にされる言葉です。
聴聞(ちょうもん):教えを聴き、聞くこと。「お説教を聴聞する」のように使います。
法座(ほうざ):法話を聞くために人が集まる場のこと。
今は「お説教」と言わないほうがいいの?
最近のお寺の掲示板や案内では、「法話」と書かれていることが多いと思います。
はっきりした決まりがあるわけではありませんが、「説教」と書くと叱られるイメージを持たれやすい、という事情もあるのでしょう。初めての人にも来てもらいやすい言葉として、「法話」が選ばれることが多いように感じます。
呼び方は、宗派や地域、お寺によってさまざまです。「法話」「ご法話」「お説教」のほか、法話の集まりを「法座」「お講」と呼ぶところもあります。本願寺派などでは、法話をすることを「お取り次ぎ」と表現することもあります。地元のお寺の呼び方に合わせれば十分です。
ですから、年配の方が「お説教を聞きに行く」と言うのは、間違いでも失礼でもありません。むしろ、昔ながらの本来の言い方です。
個人的には、私はこの「お説教」という言葉がけっこう好きです。教えを説く言葉に、話す側も聞く側も、一緒に耳を傾ける。その場の空気まで含んでいる言葉だと思うからです。
お説教・法話について、よくある疑問
最後に、お説教や法話について、実際によく聞かれる疑問をまとめておきます。
門徒でなくても聞きに行っていいの?
多くのお寺では、門徒でなくても法話を聞くことができます。報恩講やお彼岸など、行事の中で法話が開かれることもよくあります。
ただ、お寺によって形はさまざまなので、気になる場合は事前に問い合わせると安心です。報恩講については、別の記事で詳しく紹介しています。
途中で眠くなってしまったら?
正直に言うと、法話の途中でうとうとされる方はいらっしゃいます。私も聞く側のとき、まぶたが重くなったことは一度や二度ではありません。
これは私の受け止めですが、その場に足を運び、身を置いたこと自体が、聞法の一歩だと思っています。あまり気にしすぎず、聞ける範囲で聞いてもらえれば十分です。
法話の途中で「なんまんだぶ」と聞こえるのは?
浄土真宗の法座では、話の途中で、聞いている方から念仏の声があがることがあります。教えにうなずく気持ちが、自然に声になったものです。
初めての方は驚くかもしれませんが、無理に合わせる必要はありません。
まとめ
「お説教」は、もともと仏さまの教えを説き聞かせることを指す仏教の言葉です。「叱る」「小言」という意味は、あとから広がったものでした。
日本では、平安時代から唱導や説教として語り継がれ、江戸時代には浄土真宗で節談説教として大きく花開きました。落語などの話芸ともつながる、奥行きのある言葉です。
浄土真宗では、教えは「聞く」ことを通して出遇うものとされています。法事のあとのお話も、亡き人をご縁として、私たちが仏法を聞く大切な時間です。
次に「お説教」という言葉を耳にしたら、少しだけ肩の力を抜いて、耳を傾けてみてください。

